「すいません」 「ん?」 呼び止められて、くるりと振り向いた。 そこにいたのは、まだ配属されて間もない警察官の若者で、ぜっぜっ、と荒く呼吸を繰り返している。きっとあちこち探すために走り回っていたのだろう。 「何?」 「あ、ええと。警部がお呼びです」 静かな口調で促すと、呼吸を整えた彼はしゃんと背筋を伸ばして報告してきた。 「用事はないって言っといてよ」 「そ、そういうわけにもいきません。打ち合わせには、どうしても参加して頂かないと」 「今日の報告は終わったはずだろ?」 「でも」 無愛想な顔で、口調を変えぬまま断るが、警官は困ったように眉を下げていて、とうとう堪えきれずに小さく笑い出した。 「……あの?」 「判ってる、冗談だよ」 「え」 呆気に取られる彼の表情に可笑しそうに笑いながら、まっすぐその目を見る。 「警部は第二会議室?」 「あ、はい」 素直な返答に小さく頷き返すと、すぐに行くよと言い置いて、颯爽とした足取りで歩き出した。 今の職場に転職して、さて何年になるかと黒崎は考えた。 二年? いや、三年か。 短いと思うし、長いと思う時もある。 「まさか同じ仕事をこっちでやるとは……なぁ」 一人ごちた黒崎の呟きは、誰にも届いてはいない。 自首しようと出頭した先で、捜査員のスカウトを受けるなどと、誰が想像できただろうか。 詐欺師を辞める為に桂木の下から離れて、今はこうして警察署の中を自由に闊歩する立場になったが、何だかやはり息苦しいとも思う。結局まだ、警察を信用しているわけではないのだ。 現在黒崎は『知能犯所属の特殊捜査員』と仰々しい肩書きを背負っているが、やっていることは以前の詐欺師時代とそう変わってはいない。 むしろ警察の下についた分、もっと暴れているような気もするが、それでも構わないかと思い直した。 この仕事に就けば、と揃えられた条件。 それが全て叶えば、もうこんな仕事もおさらばして、ゆっくりと静かに暮らそうと思う。 ただそれだけ、祈るように念じながら、黒崎は今日も警察書の中にいる。 そんなことをぐるぐると考えているうちに辿り着いたのは、ご丁寧に看板を掲げた第二会議室。 黒崎はふ、と小さく息を吐き、表情を引き締めると、鉄製の扉を軽く叩いた。 扉を開けた先の部屋は、こじんまりとしている。奥でふんぞり返る男の背後には大きなホワイトボードが設置されてあり、長方形型に並べられた長い机には、彼の部下らしき者たちが綺麗な間隔を保って座っている。 「おう、来たか。飼い犬」 「ああ。来てやったよ、飼い主殿」 その奥の男が見知った顔だったから、軽い皮肉に対して口元を歪めて返した。 何せ、クロサギだった頃にはよく顔を合わせているのだ。男――神志名は今でこそ警部に昇進したが、そのキャリアらしからぬ言動と行動力には、毎度の事ながら驚かされる。 開口一番の応酬に絶句する部下をよそに空いている椅子に座ると、神志名はよく通る声で宣言した。 「じゃあ、黒崎も来た事だし、今回の被疑者に対する打ち合わせを始めようか」 妙にフランクなその口調にこっそりと苦笑しながら、黒崎は配られてきた資料に目を通した。 打ち合わせはいつもどおりだ。 捜査員の一人が何通か寄せられた被害届を読み上げ、被疑者と思しき人物についての説明をする。 黒崎はそれに対していくつか質問を重ね、捜査員が答えを返す。時折神志名も質問をしたりするが、その対応は自分とさほど変わらない。 「こっちの資料だけだと、心もとないな。おれの方でも情報を集めてみるけど、それは構わないよな?」 「ああ。お前の好きにしたらいい」 「わかった」 神志名とそんな会話を交わし(その度に捜査員たちはぎょっと目を剥いたが)、一通りの打ち合わせは終わって、解散を告げられた。 ぞろぞろと捜査員たちが部屋を出て行く中、神志名と黒崎だけが残った。 「……黒崎」 「何」 「お前、一応俺が上司なんだから、敬語ぐらい使えよ」 他の奴らが驚いてただろうが、と苦笑しながら神志名は言った。だが、黒崎は口調を変える気は毛頭ない。 「残念だけど、使う気はないんだよねぇ」 「うわ、物凄く豪快な」 「あんたさ、おれが敬語使うところ、見てみたい?」 「……すまん、俺が悪かった」 軽い口調の応酬は、腐れ縁が長いからこそ。 神志名も、同じように詐欺師という人間によって人生を狂わされた人間だから、どうしても仲間意識のようなものが芽生えてしまう。 だが、それだけでカテゴライズするのは黒崎にとってプラスになりはしない。あくまでも同じ目的のために動いているのだから、彼すらも利用するくらいの心持ちで充分なのだ。 「今回の件は、おれ一人で動いていいんだな?」 「無論。これくらいのチンケなシロサギ、お前一人で充分だと思うが」 「まあね」 どうやら神志名は、こちらの手腕をある程度評価しているらしい。被疑者に対しての乱暴な物言いに、ひょいと肩をすくめる。 「んじゃ、いつもどおり、好きにやらせて頂くとしますか」 「そうしてくれ」 言って立ち上がった黒崎の首元から、何かがするりと滑り落ちる。ブラックメタルで作られた、羽根のモチーフを象ったチョーカー。 「――黒崎」 「ん?」 「ちょっと、話でもするか。久しぶりに」 缶コーヒーの一本くらいなら出してやるよ。 ドアの向こう側を親指で指して、神志名は小さく笑ってそう言った。 ふたりで並んで歩いた先は、建物の端っこに追いやられた、こじんまりとした喫煙スペース。 現在完全分煙化の進んでいる上野東署では、喫煙者の恰好の憩いの場となっていて、神志名や黒崎も時々利用することがあった。大きな灰皿と自販機、空気清浄機があるだけだが、誰が持ち込んだか、小さな鉢植えが窓辺を飾り、その中では可憐な花が誇らしげに咲いているのが見える。 「ほら」 「ん。さんきゅ」 差し出されたカフェオレのひんやりとした缶を受け取り、神志名に小さく礼を返すと、軽く振ってプルタブを開けた。 公園でよくあるアルミ製のベンチに向かい合って座ると、二人の間に暫しの沈黙が流れる。 「……あいつ、元気か?」 ややあって、神志名の方が小さく口を開いた。 「元気みたいだよ。こないだも手紙来てた」 「そうか」 何となく、何の話がしたいのか、判ってしまった。 判ったからこそ、黒崎は少し笑みを浮かべて答える。 「お前、手紙書いてるか?」 「簡単にはね。そんなに書くことは無いけど」 これは本当の話だ。 実際書くことと言えば『元気でやっている』などの現状報告くらい。 「お前さ」 「うん」 「まだ、あいつのこと?」 「……うん。まだ」 「そうか」 簡単で、短い会話が途切れた。 神志名はスーツの懐からタバコを取り出し、一本抜き出して火をつける。黒崎はそれをじっと眺めて、やがて思い出したように自らも懐からタバコを探り出した。 「辛くないか?」 まっすぐ、静かな目をして神志名が問い掛ける。 それを受け止め、やがて。 「辛くない――って言ったら、嘘になるよ」 吐き出すように、そっと答えた。 嘘になるのだ。辛くないと言ってしまえば。 少なくとも、自分はあいつを潰した。 徹底的に潰し、警察にも引き渡してやった。 同じ過去を持ち、共感できる部分が多々ある相手に対して、手加減出来なかったのかと責めた時もあった。 でもそれは、相手に対して失礼と思っていたし、全力で掛からなければ逆にこちらが潰されてしまう。 まだ、目的を達していないのに。 「お前、面会に行ったか?」 「まだ。何となく、気持ちの整理がつかなくて」 これも本当だ。まだあいつに会うのが怖いから。 潰したのは自分の責任。 だからこそ、黒崎は今の仕事に就いた。 自分の手で、あいつを自由にしたいと。 ただそれだけ、ひたすら願って。 今まで、己自身の目的のために仕事をしてきた。 今度は、たった一人のために、自分が出来ることをやらなければ。 結局、それはただの自己満足に過ぎないのだけれど。 「――しかし、お前がそこまで一途とはね」 「そう?」 「とても『年上の男となら誰でもたらしこんで寝る』なんて噂流された奴とは思えないだろ」 以前神志名から聞いた、自分に対する噂話が出て、思わず苦笑した。 今のところ、その話に対しては肯定はしていない。だからといって否定もしないが。 「その噂聞いたとき、てっきりあんたが流したもんだと思ってたよ」 「馬鹿野郎。俺だってその話聞いたとき、死ぬほど驚いたっての」 軽い口調のままで言うと、神志名は渋い顔をして愚痴る。 あの時の彼の表情は最高に可笑しくて、指差して爆笑したのもいい思い出だ。もっとも、それほど年月は経っていないのだが。 「やっぱり、あいつを待つつもりか?」 「うん」 くっとカフェオレを飲み干し、黒崎は神志名の言葉に頷いた。 「あいつは、いろんなことをおれに思い出させてくれたから」 「いろんなことを、か」 「そ」 人から与えられる好意が嬉しいことも、人を愛することがどんなに難しいかも、愛し愛されることがどんなに心地いいのかも、全部。 人として当たり前の感情を思い出させたのは、他の誰にも出来なかった。いや、させなかったと言った方がいいのかもしれない。 けれど、あいつは無条件で、何の躊躇いもなくやってみせたのだ。 「だから、待つんだ」 「おーおー、健気なことで」 「何だよ、ダメか?」 「いいえ、俺はいいんですよ。もう片想いなのは承知の上ですよ」 三十路に突入するかという男に拗ねられて、黒崎は苦笑して空き缶をゴミ箱に投げ捨てた。 「あんたは今のところ、おれの飼い主だけどさ。そう簡単に手綱を引かせるわけにはいかないさ」 「随分と反抗心の強い犬だな、お前」 「当たり前だろ。おれを手懐けられるのは、あいつしかいないんだ」 まっすぐ神志名の目を見て、断言してみせる。 あいつがくれたものは、この両手には抱えきれないほどたくさんあるのだ。 愛する怖さも、強くなれることも、素直に笑えることも。 だから、ほんの少しずつでいいから、あいつに返してやりたい、と思う。 どんなに年月がかかったって構わない。 短期決戦が得意だといっても、こればかりは長く掛からないと難しい。 それに、長く掛かった方が、ずっと一緒にいられるし、その方がきっと笑って歩いていけるだろうから。 ふと思いついて、黒崎は神志名の前に立ち、背中を曲げてかがむと、頬に小さくキスを一つ。 「……あ?!」 「缶コーヒーのお礼」 呆気に取られる顔を見てくつくつ笑うと、ウインクをして告げた。 「じゃ、仕事してくるよ」 ひらひらと手を振って、軽い足取りでその場を立ち去った。 暫く歩くと、黒崎は立ち止まり、自分の胸元をそっと握り締めた。その手の中にあるのは、ふとした拍子に顕わになった、羽根のモチーフがついたブラックメタルのチョーカー。 「……大丈夫」 小さく、彼に届くようにと祈りながら呟く。 「おれは、あんたのこと待てるから。絶対待ってるから」 辛いけれど。 一人で眠る夜が寂しくて、泣きそうになったこともあるけれど。 「大丈夫だから、安心して、戻って来い」 チョーカーのトップを握り締めた拳に、軽く唇を寄せる。 それは、誰にも見せたことのない、宣誓のように。 あの日、彼は確かに言った。 多数の警察官に囲まれながら、それでも悠然とした足取りで。 呆然と見守る自分の方を振り向いて、いつもと変わらない優しく穏やかな笑みを浮かべて。 ――待ってろ。必ず戻るから。 唇だけ動かして囁いた言葉が、今でも黒崎の支えとなっている。 だから、待っていられる。 だから、大丈夫だと胸を張って言える。 「――さてと」 黒崎は首もとのチョーカーをシャツの中へと隠し、まっすぐ前を向いた。 行くか。 心の中で呟いて、改めて歩き出した。 歩いていこう。 どんなに辛くても、必ず戻ってくると信じるから。 また昔みたいに、笑える日がきっと来ると。 だから、今は一人だけでも、歩いていこう。 また同じ道を、二人で歩けるように。 外に出れば、快晴で雲ひとつ無い青空が広がっていた。 |