初夏の陽気を思わせるある日。
 見慣れたアパートを遠目に見つけた白石は、小さく笑みを浮かべた。
 せっかくだから、あの反抗心の強い猫をからかってみようか。
 そんな悪戯心に突き動かされるがまま、アパートすぐそばの駐車場まで車を走らせると、来客用の駐車スペースに停めた。
 車から降り、ロックを確認してから、改めて顔を上げる。
 このアパートに度々顔を見せるようになってから、今では何人かの店子にも顔を知られ、気軽な態度で挨拶されるまでになった。特に端から一つ隣の部屋に住む女子大生とは、すっかり打ち解けて『近所に住む親切なおじさま』と認識もされている。
 無論、あの猫は知る由もないが。
 まあ、そんなことを暴露するつもりは無い。勿論、それを知った時の反応が楽しみだと思うのも否定はしないが。
 しかし。
 鉄製の階段に回ろうとして、白石は足を止めた。
 非常に珍しい、滅多にお目にかかれないものを見てしまったからだ。
 ざっ、ざっ、と。規則正しく地面を掃き清める音。
 頭にはペイズリー柄の黒いバンダナを三角巾みたいに巻き、デニム生地のエプロンを羽織っている若者。
「……黒崎。お前、何やってるんだ?」
「何って、見たらわかるじゃん」
 唖然と見る白石の目の前で、黒崎は箒を片手に。
 仁王立ちの体勢のまま、けろりと答えてみせた。

「しかし……なあ」
「何」
「いや、部屋の中見てるから、そんなことやる間があれば掃除をしたらどうかと」
「うるせぇな」
 余計な一言だったようで、黒崎にじっとりと睨みつけられる。
 いや、だってありえない光景ではないだろうか。
 あの黒崎が。
 むしろ、様々なシロサギどもを食らい、毟り取る百戦錬磨のクロサギが。
 アパートの前で、箒を使って周辺を掃除しているのだ。
 まるでどこかのコメディ映画かマンガを見ているような気分になって、白石は呆然と彼の仕事を見守っている。
「だってさ。アパートの環境管理も大家の仕事だもんで」
「……まあ、そうなんだろうが」
 いまいち納得できない。
 しかし、何故また昼間から掃除なのか。
 それを思わず口に出して問い掛けると、黒崎は平然とした態度である一点を指差した。
「ほら、あそこ。アパートのゴミ捨て場なんだけどさ」
「ああ」
「ちょっと前に収集車が来たんだけど、カラスやら野良どもが生ゴミ食い散らかしてさ。みっともないから、そこを掃除してたんだ」
 この辺りはついでだから、と付け加えると、黒崎の手がまた動き始めた。リズミカルに響く、箒で掃き清められる音。
 しばし、その様子をじと眺めて。
「白石」
「……は?」
 不意に名前を呼ばれ、はっと頭を上げる。
「悪いんだけど、アパートの隅っこに用具入れあるからさ。そこから、塵取り取って来てくんない?」
「あ、ああ」
 ぴしりと別の方向を指差して言う黒崎に頷き、慌てて言われた場所に移動すると、トタンで仕切られた小さな小屋の扉を開ける。掃除用具やらがひしめく小さなスペースの一角から塵取りを取り出し、戻るなりそれを手渡した。
「ん。さんきゅ」
 短く言うと、てきぱきと掃除して集めた塵や土ぼこりを丁寧にかき集めた。何の条件反射なのか、白石もじっと見守るわけにもいかず、黒崎の仕事を手伝う。
「さて、掃除は終わりっと……あ」
 んん、と伸びをした先の目線に、何かを見つけたらしく。
 がりがりと短い髪を掻き毟る。
「あー。あの植木もそろそろ伸びすぎてきたんだ……」
 業者頼まなきゃ、と呟きながら用具を片付ける。
「……黒崎。お前もそれなりに大変なんだな」
「まあね」
 しみじみと呟いた言葉に、苦笑して肩をすくめた。
 それから、ちらりとこちらを見て。
「あんた、これから時間ある?」
「ああ、それほど急ぎの用事はないが」
「んじゃ、折角だからうち上がってけよ。掃除手伝ってくれたし」
 麦茶くらいは出すからさ。
 そう言って、黒崎は親指で二階の隅の部屋を指し示した。


 久しぶりに上がった黒崎の部屋は、相変わらずのカオスと化していた。
 法律関係の書物が畳の上に無造作に散らばり、脱ぎ散らかした靴下やらシャツやら、ズボンやらとごちゃ混ぜになっている。
 さらに食べ散らかした惣菜パンの袋やら、コンビニ弁当の空き箱やらがゴミ箱に力任せに突っ込まれ、今にも溢れそうになっている。
 テーブルの上もかなりのもので、いくつも作られた免許証やら、纏め買いしたらしい飴の箱やら、色とりどりの携帯電話やらでごった返しているので、どこから手をつけて片付ければいいのかすらわからない。
「その辺に座ってて」
 と言うが、どこに座ればいいのかわからないほど物に溢れているので、仕方なくベッドの端の方に腰を下ろした。
 しばらくすると、プラスチックの透明なコップと麦茶の入ったポットを持ってきた黒崎が出てきて、ポットから注いで白石に手渡す。
「はい」
「ああ。ども」
 思わず素直に受け取り、一口飲んだ。懐かしく香ばしい味が口内に広がり、喉元を冷やされる感覚に一息つく。
「さてと。適当に寛いでて。おれ、まだやることあるから」
「何をやるんだよ」
「ん? 身分証明の確認」
 言うなり、黒崎はテーブルの上の免許証をかき集め、一枚一枚を丁寧に確認する。その度にぶつぶつ呟く声をよそに、白石は傍によって顔を摺り寄せる猫に目を細めた。
「あ。これ、期限が迫ってる。これも。こっちもか。……ったく、また親爺のとこに行って偽造頼むの面倒なんだよなぁ」
「お前、教習所ちゃんと行ってたか?」
 空恐ろしい実態に、思わず冷や汗が背中を伝う。
「勿論、ちゃんと行って免許取ったよ。それを元にして、親爺のツテで偽造頼んでるんだから」
 なるほど。
 そう考えれば、あの桂木の判断は正しいのかもしれない。
 無免許の奴の免許証を偽造させるよりも、そっちの方が安全だろう。偽造したとバレれば、いつかはそこへと辿り着くだろうから。
「っと、こんだけか。後で親爺に電話して、経由して頼むか」
「あ。待った」
 免許証の束を揃えようとした黒崎を、思わず止める。
 そこから一枚を抜き取り、じっと見つめると、ある重要な事柄に気がついた。
「黒崎。これの本籍地、確か去年あたりに市町村合併食らってる」
「え、マジ?」
 慌ててそれを引っ手繰り、穴があくほど見つめると、ふうと大きく息をついた。
「うっわ、やべぇ。あんたよく気が付いたよな」
 それも合わせて頼まなきゃ、と続けると、黒崎は棚の中から小さな箱を取り出した。
「何入れてるんだ、それ」
「保険証。こっちもいくつか偽造してるから、期限もだけど合併が無いかどうか見なきゃ」
 非常に地味な作業である。
 やっぱり、こいつも大変なんだなぁ。
 普段の生活を垣間見て、白石は改めて苦笑を浮かべた。


 その後も、黒崎は身分証明の書類を色々調べ、偽造しなおすものとその必要の無いものとを仕分ける作業を続けて。
 白石は、だらだらと猫と遊んでみたり、無造作に投げ出された法律の書物を読んだりして時間を潰した。
 そんな、ゆっくりと流れる時間の静寂を破るように、突然携帯の着信音が鳴り出した。
 一瞬お互いに顔を見合わせ、やがて白石の方が懐を探る。電話はこちらだったようで、携帯を開いて発信者を確認すると、電話を取った。
「はい」
『白石さん、私です』
 いつも情報を収集してもらっている男だ。彼は、一呼吸置いて話を続けた。
『先日頼まれた件で、いくつか判ったことがありますが』
「ああ。悪いが、こっちから折り返し掛けなおす。その時に詳しいことを聞く」
『わかりました』
 ぷつりと切れた電話を直し、黒崎の方を振り返った。
「黒崎。悪いが、用事が入った」
「あっそ」
 あまりにも素っ気無い口調に苦笑すると、何時の間にか膝の上で寛いでいる黒猫をそっと抱き上げてやり、そのままベッドの上に下ろす。
 テーブルに置かれたままの麦茶を入れたコップを手に取り、一気に飲み干して、立ち上がると大きく伸びをする。余り高くない天井にぶつかりそうになったが。
「悪かったな。邪魔をして」
「おう、もう二度とくんな」
 素っ気も愛想も無い返答に、やれやれと肩をすくめ、ふと思い出したように笑った。
「……んだよ」
「麦茶、ごちそうさん。美味かったよ」
 黒崎はきょとん、と目を丸くして。
 それから、ちょっと照れくさそうに微笑んだ。
「……麦茶でよけりゃ、また入れてやるよ」
「ああ」
 応えるように右手を上げてひらひらと振って、白石は部屋を出た。
 

 なんでもない日常。
 それは、誰にも分け隔てなく訪れる。
 裏の世界で生きざるを得ない自分たちにも、平等に。
 しかし、だからこそその瞬間に安らぎを覚えることもあるのだ。


「あ」
 階段を下りて駐車スペースに辿り着いた白石は、車の運転席のドアを開けながら何かに気が付いた。
 何てことだ。当初の目的をすっかり忘れた。
「あいつからかう暇が無かった……」
 あの気難しくて懐かない猫は、からかって遊ぶのがとても面白いのに。
 来た時には沸いていた悪戯心も、今やすっかりしぼんでしまっている。
「ま、いいか」
 白石はすぐにそう思い直し、小さく笑んだ。
 時間ならいくらでもあるし、暇だっていつだって作れる。
 あの猫で遊ぶのは、またの機会でも充分楽しめる。
 それに。
 ――滅多に見れないものは、見れたんだから。
 時々こちらを見て、一瞬だけ覗かせた、歳相応の柔らかい表情。
 あんなにも他人に心を開かない猫が、そんな顔を見せただけでも大収穫だ。
「またの機会にするか」
 小さく呟いて、白石は車のハンドルを握った。 




ネタを振ったのは相方@藤村です(暴露
というわけで、詐欺師の黒崎は、幾つもの免許証やら保険証やらを
どうやって管理してんのよ、と考えた末のお話。
つうか大家さんのお仕事ってどんなのか判らないので、結構あてずっぽです。