「陽一さーん!」 「おっと、これはこれは」 あやめと黒崎が、白石の座るテーブルに戻ってきた。 先ほどまで客として座っていたソファに座るのは何だかおかしい感じがしたが、あやめに促されるまま白石の横につく。 「あやめちゃん、こちらの綺麗なお嬢さんは?」 「うふふ、咲ちゃんっていうの。今日からお店に入った新人さんなのよ」 気さくな口調で尋ねられ、にっこりと微笑んで紹介してくれるあやめに、黒崎の腹はとうとう据わった。 「初めまして。咲っていいます」 「咲ちゃんね。よろしく」 こちらに向けられる穏やかな笑みに、少し安心する。 感づかれてはいないらしい。 じゃあ、お近づきの印に、とビール瓶を差し出すと、実にスマートな仕草で空のグラスを持ち上げた。いつものことながら、その所作一つ一つがそつのない態度で、黒崎は内心苦笑する。 こんな男が、どうして自分なんかを好きだと言うんだろう。 時々頭を擡げてくる下らない問いを頭の隅に追いやって、すっかり慣れた調子でビールを注いだ。 「咲ちゃん、お酌するのが上手いなぁ。何度かこういうお店で働いていたのかい?」」 「いえ、あたしなんかまだまだで……。それに、こうやって働かせて貰うのも初めてですから」 「へえ。咲ちゃんは幾つ?」 「やだ。女の子に歳を聞いちゃダメですよ」 「ああ、こりゃ失礼」 途端、どっと沸くテーブル。黒崎は、白石の様子にほっとしながら、どこかで言いようのない苛立ちを感じていた。 この男は。 いつも、自分以外の人間に対しても、その優しい表情で笑うのだろうか。 プライベートの時に見る、慈しむようなその瞳は。 他の誰かにも、向けられているのだろうか。 『いかんいかん。今、そんなことを考えてる場合じゃないだろ』 頭の中の雑念を振り払う。今はホステスの新人としての自分を演じきらなければならないだろう? 心の中で自分を戒めた黒崎の耳に、聞きなれない音楽が届いた。先ほどまでずっと掛かっていたピアノのみの演奏が、幾つもの楽器が織り成す甘い楽曲に切り替わっている。 「あ、チークタイムだわ」 あやめが、黒崎の横で顔を上げる。 そういや、そんなものもあったな。と、黒崎は思い出した。過去に何度か白石に連れて行かれたこの店では、一定の時間帯になるとホステスとゆるやかなチークダンスを楽しむことが出来るのだ。 ただし黒崎はもちろん、白石もこの店でチークを踊ったことはないはずだ。ホステスたちに何度か誘われているが、やんわりとした口調で断っているのを見たことがある。 「咲ちゃん、踊ってみない?」 「え?」 あやめの声に、思わず振り返った。そんなことをいきなり言われても、チークどころか盆踊りさえ踊ったことなどない。 「あやめちゃん、いきなりだなあ」 横で、白石が言いながら苦笑する。。 そうだ。もっと言ってやってくれ。 「あの、でも……。あたし、踊ったこと無いし、恥ずかしいですよ……」 困ったように眉を下げる黒崎に、信じられないような言葉が聞こえたのは、その後だ。 「……やってみようか」 ――はい?? ぎょっと顔を強張らせて、白石の方を見る。 そのあからさまな態度を知ってか知らずか、彼はやんわりと黒崎の手を取ると、すっと立ち上がった。 「あ! 陽一さん、踊るの?」 嬉しそうなあやめの声に、白石は『ああ』と頷いて、黒崎を促す。 「ええ、ちょ、ちょっと待って下さ」 「大丈夫、教えるよ。――それにこれから先、色んなお客さんと踊ることにもなるんだから、練習くらいはしておいた方がいいと思うな」 ――いや、今回一回こっきりなんだって! 心の中のツッコミもどこへやら、まあまあと宥められ。 結局黒崎は、白石に手を引かれ、ホールの真ん中へと踊り出てしまった。 あやめの方をちらりと見れば、にこにこと笑みを浮かべたまま『ファイト!』と手を振っている。 ――どうするんだよ、この状況……。 本日何度目か数えることすらしなくなった黒崎のため息は、これ以上にないほど重かった。 「――はい、右足を出して……次に」 「え、えと。こうですか?」 「そうそう。……あ、そっちだとこっちの足を踏むよ」 「ひゃ、すいません」 ゆっくりした音楽に合わせ、白石が丁寧に教えながらステップを踏む。それに従い、黒崎は演技を続けながらも何とかこなしていく。 しかししばらくすると慣れてきて、リズムに合わせて上手くステップを踏めるまでになった。 気持ち的に余裕が出てきて、黒崎はふと白石の方を見てみた。 視界に飛び込んできた彼の表情は、いつも見る優しくて穏やかな笑みすら浮かんでいて。 何となく、胸の辺りがちくりと痛くなった。 やはり、この男は誰に対しても、こんな表情で笑うのだろうか。 気さくな態度で、柔らかい物腰で、優しい笑顔で。 何だか嫌な気分になって、俯いて身を捩らせる。 もう、ここから離れたいとまで思うほど。 と、突然ぐっと抱き寄せられた。 息が詰まりそうなほど、強く腕の中に閉じ込められて。 「それにしても」 耳元に落ちてきた、低い声音。 びくりと肩を引きつらせ、思わず白石の顔を見上げた。 その声は。 「まったく、そこまで変わるとは思わなかったよ。黒崎」 「……!」 周りに聞こえないほどの小さな声は、二人でいる時と同じ、独特の心地よさを持っていた。 「……いつから気がついてたんだよ」 観念して、彼にしか聞こえない程度の声量で呟く。 「あやめちゃんと一緒に来た時。何となくな」 「……じゃあ、最初からじゃんか」 あやめと戻ってきた時から気付いていたということは、一目見ただけで自分の正体を見破ったということか。 だから鋭い、っていったのに。 心の中であやめに対して毒づく。それを知ってか知らずか、白石はくすくすと笑いながらウィッグの髪を撫でた。 「さすがに、お前が女の格好をして戻ってきた時は驚いたがな」 「すぐに見破られちゃ、意味ないさ」 「……でも、綺麗なお嬢さんになった」 誉め言葉のつもりなのだろうが、ちっとも嬉しくない。 女顔だというのを認めてしまう気がして、唇をかんでまた俯いた。 「――言っておくが」 「?」 「お嬢さんの格好になったからって、お前はお前だ」 「……」 再び名を呼ばれ、見上げた白石の表情。 優しくて、穏やかな笑みを浮かべて。 その眼には、慈しむような、暖かい光が透けて見える。 「どんな格好をしていようが、お前のことは判る」 耳元で囁く声は、まるでベッドの上で聞く睦言のようだ。 低く優しくて、心地のいい声。 「何故か判るか?」 「……」 「それだけ、お前にイカレてるんだよ。俺は」 はっとしたように顔を上げる。 いつも聞かされて、冗談だと流していたのに。 その時だけ、何故か判らないけど、本当なのかも知れない、なんて錯覚しそうになった。 「……あ」 「ん?」 突き動かされるままに上げた声に、白石の手がそっと頬に触れた。そのまま持ち上げられて、ゆっくりと顔が近づいてくる。 一瞬、目を閉じそうになったが、寸でのところで思いとどまった。 「だ、ダメですよ」 演技中の自分を思い出し、上げた手で白石の肩を押した。 そこにタイミングよく音楽が切り替わり、先ほどまでのピアノのみの伴奏が聞こえてきて、黒崎は咄嗟に彼から離れる。 「……さ」 「あの、ちょっと酔っちゃったみたい。……ちょっと失礼します」 何かを言おうとしているのを遮って早口でまくし立てると、そのまま小走りで裏の方へと駆け出した。 「……」 ばたんと裏に続く部屋の扉を閉めて。 そのまま、ずるずると地面にへたり込んだ。折角借りたドレスが汚れるとか、そこまで考えてもいられなかった。 ――心臓の音が、凄い。 ゆっくりと左胸に手を当てて、深呼吸を何度も繰り返す。 「……どうしよう」 今、本気で。 あいつと、キスしたいと思ってしまった。 どこまで弱くなったのか、心臓はさっきからドキドキを通り越してばくばくと大音量で鳴らしている。今になってやっと気が付いて、黒崎は長く息を吐いた。 しばらくずっとへたり込んでいたが、やがてゆっくりと立ち上がり、今来た扉とは違う扉の方に歩き出した。 「……頭、冷やそ」 あやめたちには迷惑をかけるかもしれないが、今の状態で戻るよりは随分とマシなはずだ。 がちゃ、と重い音を立てて開けた扉から、外のひやりとした空気が流れ込んできた。 ふらふらと、なれないヒールのパンプスのままで。 クラブの外に出た黒崎は、車道をぼんやりと眺めていた。 そっと唇に指先を触れさせる。 もう少しで、キスするところだった。 あのまま、あの空気に流されていれば、確実に。 けれども、あの時間が続けばいいと思ってもいたのだ。心のどこかで。 きっと白石は、いつものような優しいキスをくれるのだろう。 それを、もしかして自分は期待していたのかもしれない。 「……何か、変な気分」 どうしても胸の中に残ったもやもやが取れなくて、黒崎は小さく呟いた。 そのとき。 「お嬢さん、こんなところで一人でいたら、危ないですよ?」 「……え?」 背後からした声に、思わず振り返ってみれば。 先ほど逃げ出してしまった原因の男が、微笑みながら立っていた。 「白石っ、あんた何して」 「あやめちゃんたちには、上手く言った」 真っ赤になって驚いている黒崎に構わず、彼はゆっくりと歩を進める。 「黒崎」 名を呼ばれ、目を見た。 先ほどと同じ、あの優しくて穏やかな。 「……嫌だったか」 眼差しと同じくらい優しい声で尋ねられ、黒崎は微かに首を振った。 嫌じゃなかった。少なくとも、嫌悪の感情はなかった。 むしろ。 「……ごめん」 俯きがちに、小さく呟く。 「――怖かったんだ」 「怖いのは、俺がか?」 「違う。それは、違う」 もう一度首を振る。 では、何故? 自分自身に問い掛ける。その答えは、もしかしたらとっくに出ているのかもしれないのに。 「俺を怖いと思っていないのなら」 ――ちゃんと見てくれ。 そう言いながら。 白石は、黒崎の身体を腕の中に閉じ込めた。 「あ……」 顔を上げて。今度は。怖くないと、言えるように。 小さく微笑んで。 「……いいか」 囁くように問われ、黒崎は小さくうなずいた。 今度こそ、本当にキスをしていた。 軽く触れるだけの、小さなキス。 何度かそれを繰り返して、ゆっくりと離れると、黒崎は小さく苦笑いした。 「あーあ。口紅付いてら」 指先で白石の唇を拭ってやると、そこにも優しくキスをされた。 「いいんだよ。むしろ勿体無い」 「ばか」 くっくっと、二人で喉の奥で笑いあう。 「なあ。俺のマンションに戻ったら、チークの練習でもするか?」 「……うん」 「よし。じゃあ戻るか」 「ん。……でも、あやめさんたちに迷惑掛けちまった」 「ま、お前も被害者だろ」 「そりゃそうだけどさ」 笑いながら、手を繋いで。 ゆっくりと歩いて、クラブへと戻った。 「咲ちゃん! 大丈夫?」 「あ、ご、ごめんなさい。あやめさん」 「いいの、あたしもごめんね?」 戻ってくるなり、心配と顔に大きく書いたあやめに抱きつかれ、あやすように肩を叩きながら宥めて。 その横では、白石が苦笑いを浮かべていて。 席に戻って、仕切りなおしとみんなで新しくボトルを下ろしてもらい、それぞれで楽しく笑いながら飲んで騒いで。 長い長い一日が、やっと終わった。 「黒崎ちゃん、本当にごめんね」 「いいって、おれも結構楽しかったし」 結局、クラブには閉店間際まで居座っていた。 入り口の前で申し訳なさそうな顔のあやめに、いつもの黒コートに戻った姿で手を振って笑う。その横では、白石がママと何か楽しげに話しているが、声は残念ながら聞こえていなかった。 結局、あやめや他のホステスたちにもすぐに知れたらしい。 白石が、とっくに黒崎の正体を見抜いていたことを。 「陽一さんを驚かすのって、本当に難しいわ」 「大丈夫だって。あいつ、それでも一瞬間抜けな顔してたから」 フォローのつもりで言ってはみるが、あやめは残念そうな顔を変えなかった。 「ダメだよ。陽一さん、そんなに顔に出ない人なんだから」 「はは。確かにね」 「でも、本当に迷惑掛けちゃったね。黒崎ちゃん」 「いいよ。おれの方こそ、あやめさんやママさんに迷惑掛けたし」 ごめんな、と頭を下げると、彼女はこちらこそ、と深く頭を下げた。 「こんなことになっちゃったけど、また遊びに来てくれる?」 「勿論。あいつと一緒にね」 約束だよ、とあやめに指きりまでされて、やっと黒崎は白石と共に家路についた。 「おい、黒崎」 「何だよ」 振り返った黒埼の唇に、白石の指が伸びた。 そのまま、ラインにそってなぞられて。 「口紅、残ってた」 からかうような笑みを浮かべる彼に、こちらも悪戯っぽい笑みを浮かべて返す。 「残念。それなら、あんたの頬に思いっきりキスしてやるのに」 「ここでか?」 悪戯の相談事のように、声を潜めて笑いあって。 「勿論、あんたの部屋で。そいで、他の女どもにやきもきさせてやる」 「それは光栄だ」 「だろ?」 ほんの短い間の、おとぎ話のような。 胸の中のクラクションが、けたたましく鳴り響くような。 そんな甘い唇の魔法は、まだ解けない。 |