そういえば。 ガキの頃、好きな子のタイプを聞かれて、なんと答えたか。 あの時答えたのは、確か、可愛い子。 そんな、昔の記憶が蘇った。 「……」 「お。起きたか」 目がさめた黒崎に、のんびりした声が掛かる。 起き上がって、しょぼしょぼした目を擦りながら声のした方を探すと、その先には見慣れた中年の男がスラックスを履いただけの格好で笑っていた。 40代だというのに、適度に筋肉のついた引き締まった身体。綺麗に撫で付けられた白髪混じりの髪、綺麗に整えられた口元の髭。 フレームのないオレンジ色のメガネを掛け、彼は柔らかく笑っていた。 「……あれ、白石……?」 何で自分の商売敵がこんな所にいるのか、不思議に思って。 それからしばらくして、今までの状況を思い出す。 「――あ、そっか。ここ、ホテルだっけ」 「おいおい。大丈夫か」 ぼやあ、とした表情で独り言を呟くと、困ったように彼が言った。 段々、思い出してきた。 半ば強引に食事に連れ出され、酒もちょっと入って上機嫌になったところに、ホテルに入って――それから。 「……うわあ」 最後の一幕をうっかり思い出し、途端に顔が真っ赤になる。 そういや、自分がまとっているのはベッドに掛かった毛布だけで、他は何にも着ちゃいない。 とゆーことは。あんなことやこんなことやそんなことまで。 やっちゃってたというのか。自分は。あの男と。 「……おーい。大丈夫か?」 「わあっ!」 突然、ずいと白石の顔が近づいてきて、驚いた黒崎は大声を張り上げた。 「……まだ、寝ぼけてるか?」 くつくつと笑いながらすぐ近くに腰を下ろし、右手で抱え込むように黒崎の肩を抱き寄せると、額に唇を押し付けてきた。 軽く、ごく軽く触れるだけのキス。 「もう、目は覚めたよ」 「そうか」 呟き、白石はまた額にキスを一つ落とした。彼がいつもするのは、左側にあるすっかり薄くなった傷跡だ。 確か、あのムカつく警部補が、手錠で殴った時の傷。 「――あんたってさ、よくそこにキス、するよね」 「ああ。初めて会った時、また痛そうだと思った」 「結構深かったから、跡が残るだろうな、って思ったけど」 「……だいぶ薄くなってきたもんな」 抱き寄せていた右手を上げて黒い髪をわしゃわしゃと撫でると、名残惜しそうにそっと離れた。 「シャワー浴びてくるか?」 「――あ。そうする」 小さく頷くと、恐る恐るベッドから下りた。足腰がバカになってるんじゃないかと心配していたが、それほど酷い状態ではないことにほっと安堵の息をつく。 自分の服を視線で探してみると、あちこちに点在しているのに気が付いて、黒崎はちらりと白石を見やった。 「あんたのシャツ、貸して」 「ほら」 「ん」 投げて寄越された真っ白いシャツを羽織る。体格の関係上、腕は余るわ肩の線はずり落ちるわと散々だが、何も着ないよりはマシだ。 自分の服は、後でかき集めて着ればいい。それに何より、もうここまで散らばっていると今拾うのが面倒だ。 「……残念だな」 「何が?」 背後でした白石の声に、ふと振り返る。 「折角脱がせたのに。綺麗な身体がもう見れない」 「バカかあんたは」 面白そうに続いた言葉に毒をひとつ吐き捨てる。 バスルームに入る直前、べぇ、と大きく舌を出して、荒々しくドアを閉めた。 熱いシャワーが降り注ぎ、汗や夕べの名残を洗い流す。 ついでに顔も髪も洗ってしまって、コックを捻ってお湯を止めると、黒崎はやっと一心地ついた。 ふと、視界に飛び込んでくる鏡の中の自分の姿。 脳裏に蘇るのは、先ほどの白石の言葉。 ……どこが綺麗な身体なんだ。 右の脇腹と、首筋から肩口にかけて大きな傷跡が残る、この身体。。 それを、どうして綺麗と言えるのか。 ひょろひょろと細くて頼りない自分の身体が好きになれなくて、わざと黒いコートで体型を隠している黒崎には、判らない部分でもある。襟を立てて着ているのも、首筋の傷を見られないようにしているのに。 「……ちぇっ」 小さく舌打ちをして、黒崎はやっとバスルームを出た。 出ると、大きなバスケットには脱がされた服が綺麗に畳んで置いてあった。黒いコートは無いが、下着から何から、全部揃っている。 多分あいつが集めてくれていたんだな、と納得しながらバスケットの中身を取り出して身につけると、最後に残ったシャツを取り上げた。 バスルームに入る前、白石から借りたシャツだ。 襟元に鼻を近づけてみると、少し汗の匂いが残っていた。 それに混じって、かすかに整髪料の匂いもする。 案外、匂いのきつい整髪料を使っているのかと思っていたのに、意外だな、と思う。 「……何やってるんだか、おれは」 「まったくだ。人のシャツの匂い嗅いで何してるんだ」 まるで変質者か純情な乙女のような行動に、一人ツッコミを入れた黒崎の背後から、白石の声がした。 振り返ってみると、苦笑いを浮かべたシャツの持ち主が上半身裸のままで立っていて、更に顔が真っ赤になる。 慌てて、そっぽを向いて早口で呟いた。 「な、何でもねぇよ」 「いや、それならいいんだが。――そのシャツ返してくれないか」 いい加減寒くなってきた、と情けない顔で言う白石に、小さく苦笑を浮かべて持っていたシャツを手渡した。 「ありがと」 「いや。――それより、服はそれで合ってるか?」 「うん。大丈夫――って、あんたが持ってきてくれたわけ?」 「そりゃ、ホテルマンにやらせるわけにはいかないだろ」 「それもそうだ」 シャツを羽織りながら返された言葉に納得して、苦笑をもう一つ。 「ルームサービス頼んでおいた。食べるだろ?」 白石が親指で示した先には、ワゴンで運ばれた朝食がずらりと並んでいた。数種類のトーストにスクランブルエッグ、サラダにソーセージにフルーツなど、典型的な洋食スタイルの品揃えに、ひとりでに腹が小さく鳴った。 「――あ。これ、ちょっと甘い」 「そりゃ、デニッシュ食パンだな。気に入ったか?」 「うん。美味い」 小さなテーブルセットに料理を並べ、向き合って食べる。 よほど腹が空いていたのか、自分でも驚くぐらいの食べっぷりに、白石が楽しそうに眺めていた。 「――楽しそうだね」 「ああ。お前がそこまで食べてくれるのは楽しいし、嬉しいからな」 「ふうん」 曖昧に相槌を打って、また食事に没頭する。 量にすれば三人前くらいある朝食を二人で綺麗に平らげると、白石が同じワゴンで運ばれていたコーヒーをカップに注いでくれた。 「なあ、さっきさ」 「うん?」 入れてくれたコーヒーにどばどばと砂糖とミルクを追加して啜りながら、気になったことを尋ねてみる。 白石の方はといえば、何も入れずにカップに口をつけていた。 「あんた、おれのこと『綺麗な身体』って言ってたけど」 「ああ。あれか」 「……綺麗なんかじゃないじゃん」 「俺は、綺麗だと思うぞ?」 まっすぐな視線を受け止めて、白石が答える。 「――だってさ、女みたいに胸があるわけじゃないし」 「男で胸があるなら、そりゃ筋肉だな」 「傷、あるし」 「盲腸の傷なら俺にもあるぞ? 見ただろ」 「――えーと、詐欺師、だし」 「そんなもん、俺だって詐欺師だろうが」 まるで効果のない押し問答に、黒崎はきょとんと白石の顔を見た。 「お前、もしかして判ってないだろう」 「……何が?」 苦笑交じりの言葉に、小さく尋ね返す。 「俺が何でお前のこと綺麗って言ったか、判ってないだろ」 全く判らない。綺麗っていうのは一般的に、何の傷も跡もないもののことを指す言葉じゃないか。 「……だから」 言いかけた黒崎を右手で制して、白石は言葉を続ける。 「俺が綺麗だって言ったのは、お前の傷もひっくるめて、生き方のことを指してるんだ」 「生き方……?」 「そう。どんなに這いつくばってでも、全部をひっくり返すくらいにでかくなってやる、って勢いで生きてる奴は、綺麗なんだと思う。そいつが、どんなに醜い傷を負っていようとな」 「……」 「というのが、俺の持論だな」 「……そう、かな」 「あー……例えばな、身体や顔に凄い火傷の跡を負ってるけど、いい顔で笑ってる人とかいるだろ」 「ああ、うん」 「お前も同じだ。だから、綺麗だと思ってる」 白石は、はっきりと言ってみせた。 その迷いの無い言葉に、呆気に取られて彼の顔を見る。小さく刻まれた皺だとか、メガネの奥の柔らかい眼差しだとか、口元に浮かぶ穏やかな笑みだとか。 そうして言い切れる彼の方が。 綺麗だな――、と。黒崎は素直な気持ちで感じた。 「何。どうしたんだ? 鳩が鉄砲食らったような顔して」 「……うん」 かち、とカップを皿に置いて尋ねてきた白石に、ぽつりと小さく呟く。 「あんたって、優しい人だよな」 自分もつくづくバカだと思う。プライベートの時は、いつだってこんな風に接してくれていたはずなのに、今ごろ気付くなんて。 「おっ、やっと俺に惚れてくれたか?」 「自惚れんなよ、あんたなんか嫌いだ」 「――やれやれ」 浮かれた調子の声に鋭く返すと、一転しておどけたように肩をすくめる。そんな白石の表情が何だか可笑しくて、黒崎は声を上げて笑った。 「……やっと笑ったな」 「え?」 「お前の、そうやって笑う顔、始めて見る」 いい顔して笑うじゃないか、と微笑んで言われ、くすぐったい気持ちで首を竦めた。 昔、ガキの頃。 どんなタイプの子が好みかと聞かれた。 その時、散々悩んで出た答えは『可愛くて優しい子』。 可愛いかどうかは、もうどうでもよくて。 ただ、この人は優しい人だと、思う。 こんな時に昔のことを思い出すのが恥ずかしいから、彼には黙っておくけれど。 「白石」 「何だ?」 呼びかけると、こちらに向けられる優しい笑み。 だから、素直に言った。 「――キスしてよ。あんたの好きなところでいいから」 「ん」 彼は黒い髪を撫でて、柔らかく。 額の左側、薄く残った傷跡に、軽く優しいキスをくれた。 |