その大きな手で、上向けされられて。
 親指だけが、やんわりとなぞるように、唇に触れる。
 いつも口付けられる前に行われる、その儀式に似た行為は。
 少なくとも、自分のココロを惑わせるのだ。


「ん」
 その日も、いつものように、そっと親指で唇をなぞられて。
 丁寧で、優しく触れる感触に、黒崎は閉じていた目をゆっくり開いた。
 視界に飛び込んできたのは、真摯な瞳でまっすぐこちらを見つめている、白石の表情。
「……何だ?」
「あんたって……どうして、唇触んの?」
 小さく問い掛けられて、逆に思っていたことを問い返してみる。
 そんな、真剣で、優しい眼差しでこちらを見て。
 これじゃまるで、本当に何かの儀式みたいだ。
「柔らかくて好きなんだよ」
 さらりと答えた白石は、飽きずに何度も唇のラインを親指でなぞっている。
 少しずつ、高鳴っていく心臓の音。
 それを自分のものとは思えないほど、遠く感じながら。
「そっか」
 黒崎は、囁くように呟いて目を閉じた。
 
 ゆっくりと触れていた指先が、ふと離れた。
 大きな手のひらが、頬を柔らかく包んで、先ほどとは違う柔らかい感触が唇に伝わる。
 ああ、キスしてるんだ。
 啄ばむように、何度も角度を変えて触れてくる唇は、やがて怖いくらいの熱さで、強く重ねてくる。
 タイミングを見計らって薄く開けると、待ちかねたように滑り込んできた舌の生暖かさに、僅かに肩を震わせた。
 優しく柔らかく、いつものように、溶けそうなほど。
 包み込むみたいに、蕩かすように、絡めてくる愛撫は、少なくとも黒崎にとって嫌悪の感情は無い。
 男にファーストキスを奪われるというのは、最初の頃こそおぞましい気もしたが、今はすっかり慣れてしまった。むしろ、彼とするキスのほうが、黒崎にしてみれば当たり前の行動なのだと思う。
「ん、ふ」
 キモチいいな。
 鼻に掛かった甘い声を漏らし、黒崎は白石の背中に手を回した。
 もっと、して欲しいな。
 心の中で呟いた言葉が伝わったのか、悪戯に触れてくる舌が、誘うようにこちらを突付いてきた。
 一旦引っ込めた舌を、今度は彼の唇の間にぎこちなく滑り込ませる。
 途端、呼吸すら奪われるんじゃないかと思うほどの荒々しさで貪られた。
「……!」
 流石に驚いて、黒崎は思わず目を開いた。
 だが、それで止まる事はなくて、食らい尽くすように激しく舌を嬲られる。
 背中に回した手が、ぎゅっと白石のシャツを握った。
 どうしよう。キモチよすぎる。
 激しく濃厚な口付けの応酬に、ぞくぞくと背筋に何かが駆け上っていくのを感じていた。
 
 やっと解放された舌から、とろりと透明な糸が引いた。
 頭が、ぼうっとする。
 切なく高鳴っていたはずの心臓が、今では激しく打ち鳴らしている。そっと目を開けて白石の表情を伺ってみると、優しくて穏やかな笑みを浮かべていた。
 ああ。
 自分はいつも、この笑みを見ているのか。
 そう思うと、知らず笑みが浮かぶ……のだが。
 いや、今はそれでどころではない。
 ちょっと待て。いや、本当に。
「……マジかよぉ」
「? どうした?」
 情けない声で呟く黒崎に、白石が不思議そうに尋ねてきた。
 きっと彼から見たら、真っ赤な顔に映っていることだろう。
 凄い。いや、こんなことってあるのか。
「……笑わね?」
「勿論。誓ったっていい」
 自信たっぷりに頷かれ、黒崎は真っ赤な顔を隠すように肩口に押し付けると、小さな声で、ぽつりと言った。
「……たっちゃった」
「あ?」
 頭上から降ってきた、いつもの彼からはおよそ信じられない間抜けな声に、やっぱり言わなきゃよかった、と勝手に後悔する。
「だから」
「いや、わかった。わかったが」
 慌てた白石がべりっと身体を引き剥がして、こちらの顔を覗き込んできた。
「……全力で?」
「全力で……じゃないと思う。多分、半分くらい」
 自分の身体のことは、自分が一番良く知っている。
 今の状態を尋ねられ、ぽそぽそと小さく答えた。
「今日はまだセクハラしてないぞ、俺」
「うん、してない。……けど」
 いつもだったら、キスしながら色んなところを撫でてくるから、それは黒崎自身もよく判っている。
 背中やら腰やらを撫でてくる不埒な手に、いつも『セクハラ親父!』と罵ることもままあるが、それが一切ない状態でこんなことになるのは。
「……キスだけでこんなになるのって初めてなんだけど」
「――まあ、俺もそういうお前を見るのは初めてだから……なあ」
 引き剥がされた身体で、もう一度抱きついた。
 それを丁寧な手つきで受け止めて、白石が小さく息をつく。
「――何」
「いや、感慨深いだけ」
「あ、そ。……わ?」
「おい、どうしたんだ?」
「……うわ、何か、足に力入んね」
「さっきから?」
「う、うん」
 何だか、全身がぐにゃぐにゃの軟体動物にでもなった気分で。 白石のシャツにしがみ付く手も、なかなか上手く力が入らない。
 と、突然、自分の身体がふわりと浮いた。
 慌てて白石の方を見ると、彼は優しい笑みを浮かべたままで口を開いた。
「ベッドまでお連れしますよ、お坊ちゃま」
「うむ、よきに計らえ」
 冗談めかした口調に喉の奥で笑い、ちょいと威厳のある態度で言葉を返した。

 儀式はそこから始まる。
 唇に触れて、唇を重ねて。
 邪魔なものを脱ぎ捨てて、互いの体温を感じて。
 手のひらを重ねて、指を絡めて。
 息を合わせて、熱を感じて。
 ――そして。

 強すぎる快感の先にある、頂上へと上り詰める直前、白石がくれたキスは。
 何もかもが溶けてしまうほど、甘かった。


「――っはふ」
 くたぁ、と覆い被さった身体が重い。
 苦しさに息を荒く吐くと、白石が『あ、悪い』と小さく呟いて横に転がった。
 ただし、自分を抱えながらやってくれたものだから、自然こちらも横になってしまうのだが。
「――あれ」
「ん?」
 枕元に転がっている残骸を見つけて、声を上げた。
 よっこらせ、と腕を伸ばしてそれを摘むと、しげしげと眺める。それは薄っぺらい正方形の形をしていて、一部分が乱雑に破れているのが見て取れた。
「あんたって、もしかしていつも着けてしてんの?」
「当然だろ」
 意外だ、と思いつつ問い掛けると、実にあっさりした答えが返って来た。対する白石は、心外な、という顔をしているのがちょっと可笑しい。
 そういや、この男は実に用意周到だよな、と思う。
 サイドボードの引出しには、先ほどの正方形の包みに入ったものが箱で常備してあるし、小さいボトルの潤滑油みたいなものまで何本か転がっているのだ。
「当然って、おれ妊娠しないじゃん」
「お前のためでもあるし、俺のためでもあるんだよ」
 いつそんなものを着ける間があるというのか、というツッコミは、敢えてしないが。
 白石は、仕事上でこそ利用したりもするが、プライベートではいつだって自分を気遣い、労わり、慈しんでくれる。
 その、透けて見えるほどの感情が、くすぐったい。
「ふむ。そうか、なしの方が良かったか。お前は」
 低い声で言われ、ぐいと力強く抱きすくめてきた。
 途端に震える身体が憎い。
「あ、ちょっと待てよ、こら」
「待たない」
 ぐぐぐ、と近づいてくる顔を、両手で何とか押し止める。
 このままだと、二回目に突入する。
 それだけはちょっと勘弁願いたい。すでに二回ほど解放されている身体は、睡魔が限界まで来ているのだ。
「今度、ケーキをしこたま食った口でキスするぞ、おれっ」
 苦し紛れの脅し文句が、意外なことに効いた。
 白石がぎょっとした顔でこちらを凝視して、やがて気持ち悪そうに手で口元を隠したのだ。
 甘いものが全般的に苦手だと漏らしたのを思い出して告げただけなのだが、これを見逃す手はない。
「じゃ、おやすみっ」
 隙を突いて彼から離れ、ごろりと寝返りを打ちながら毛布を引っ手繰る。
 背中を向けられた白石が、ゆさゆさを揺さぶられるが、気にもしないでわざと寝息を立ててやる。
 うろたえた声で色々言ってくる彼に、黒崎は可笑しそうな笑いを噛み殺した。


 このココロには触れさせないように。
 無条件で触れるココロは心地いいけれど。
 だからといってその心地よさに溺れてしまったら。
 きっと、後戻りが出来なくなる。
 
 まだ、触れさせるわけにはいかないんだ。
 この捻じ曲がったココロには。
 

 今の間だけ、もう少しだけ。
 振り回させて、あんたのココロ。
 祈るように心の内で呟いて、黒崎はゆっくりと覆い被さる闇の中へとダイブした。



やはり私は甘いのが書きやすいらしい。
振り回す黒崎と振り回される(のを楽しんでいる)
白石さんが楽しいと思います。ええ、個人的に。
つーか白石さん今度生む(何)着ける派かどうか判りません。
もしかしたら着けない派かもしれない。