軽快な電子音に、闇に閉ざされていた意識を引き上げられる。 半分ぼんやりした顔を上げると、のろのろと音のするほうに手を伸ばし、やがて充電器から携帯電話を引っこ抜いた。 「……はい……」 「俺だ」 欠伸交じりの応対に、低く返ってきた声。 仕事の電話ではない。ただ一人、着信音を変えてあるから、誰なのかは判ってはいる。 「……んだよ」 「ちょっと暇が出来たんでな。これから、飯にでもと思ったんだが?」 「……勘弁して」 くあ、と大きく欠伸をして、相手の誘いを蹴っ飛ばす。 どうせ飯だけの用事で済む筈がない。それを身をもって知っているし、だからこそ反応も億劫なものになっていた。 「おれ、やっとでかい仕事が終わって一息ついてんだから……」 「じゃあ、好都合だ」 どこが好都合なんだか。 徐々にクリアになっていく意識を感じながら、ゆらりとベッドの上で起き上がった。トレーナーにシャツ、ゆったりした迷彩柄のカーゴパンツのままで、携帯を持ったまま大きく伸びをする。 「前に会ったのって、先週だったような気がするけど」 「それはそれ、これはこれだ。それに、またしばらく、お前に会えない」 「へえ?」 「また暫く、名古屋に戻るからな。その前に、お前に会いたい」 「そいつはまたベタな口説き文句で」 のどの奥で笑い、ベッドに乗ったまま胡座をかく。 同じ男に会いたいなんて、酔狂なことを言い出す奴もいるものだ。いつものことだが、青年――黒崎はそう思う。 「駄目か?」 「だいたい、あんたと会ったら日帰りで済まないだろ」 実際、こいつと会って、その日のうちに帰れた試しがない。いつも朝か昼過ぎに、重い腰を引きずって帰るのが常だ。 「残念だな。折角、横浜の方で美味いラーメン屋を見つけたんだが」 「……あんたがラーメン屋、ってガラか?」 冷ややかにツッコミを入れるが、相手は至って涼しい口調を崩さない。 「ついでに、新しく出来たスイーツの店も見つけたんだがな。お前の好きそうな、ケーキの種類が豊富なところ」 「う」 低く、どこか楽しげな声に、思わず声に詰まった。 いつも思うことだが、彼はいつでもこちらの好みを的確についてくる。甘いものが好きなのも早々にばれたし、他にも、まあ、色々あるが。 「だいたいさあ。……どこの世界に、クロサギを飯に誘うシロサギがいるよ」 「ここにいるだろ」 身も蓋も無い即答に、やはり黒崎は口をつぐんだ。 相手はシロサギだ。自分が喰らい、潰す対象。 だというのに、彼はそのことを知っているのか、こちらの力の限界を知っているのか、それともただの酔狂なのか。 黒埼には、彼の真意が読み取りきれない。そんな印象があった。 「それに、喰われるのはいつもお前の方だろ?」 さらりとした口調で言われた言葉に、過剰に反応した黒崎の顔はどかんと赤くなった。 「――だ、誰のせいだよっ!」 流石に動揺して怒鳴ると、携帯電話の向こうでくっくっと笑う声が聞こえた。面白がっている、完全に。 面白くない。 「――判ったよ! 行きゃいーんだろっ」 「ああ、待ってるよ。場所は……」 指定してきた待ち合わせ場所は良く知っている所だ。時間は今から二時間後。車で移動すれば、よほどの渋滞がなければ十分余裕がある。 「じゃあ、また後でな」 含んだ口調の言葉を最後に、途絶えた電話。着信ボタンを押した黒崎は、聞こえない彼に向かって呟いた。 「……ったく、あの野郎」 ざっと部屋の周りを見回すと、窓際ではためく黒い上着を乱暴な手つきで取り出した。 待ち合わせ先は、少し離れたJRの駅前にある激安のパーキング場。 その一角に慣れた様子で車を停め、黒崎はゆっくりと出た。 時間はまだある。 入り口横の自販機でカフェオレを買い、寒い外気に冷やされた手のひらを暖めながら、車に凭れて相手を待つ。 「……さむ」 白い息を吐き出して呟くと、手の中のカフェオレのプルタブを引き上げる。それをちびちびと飲みながら、黒崎はぼんやりと考える。 あの男は、何故あそこまで自分に関わろうとするのか。 最初のきっかけは、本当にどうでもいい偶然だった。 それが、今では彼の方から連絡が入るようになった。二〜三ヶ月空く時もあるし、毎週の時もある。 関わった仕事がどうにもならなくて、やむなく連絡を入れた時もあったが、こちらからはその一度だけ。 彼がそこまで執着する理由は、薄々感づいている。だが、それが黒崎にとってプラスになるどうかについては、やや疑問に残るのだが。 仕事の話は一切しない。あくまでもプライベートで会うだけで、そういう風に振舞うこと。彼から切り出してきた、たった一つのルール。 そんな不確かなルールを忠実に守り、二人は時々会っている。 やがて缶の中身がなくなったのに気が付いて、黒崎は小さく舌打ちすると、少し離れた籠に目掛けて、オーバースローで投げる。綺麗な孤を描いた空き缶は、派手な音を立てて籠の中に収まった。 投げ入れた缶の反動で、円筒形のそれが左右に軽く揺れる。 「ストライクだな」 背後から掛かってきた声に、敢えて振り向くことはしなかった。その代わり、ぶっきらぼうな口調で小さく言う。 「五分遅刻」 「判ってる」 低く、穏やかな声がこちらに近づいてくる。やがて黒崎の横に並ぶと、その目の前に新しいコーヒーの缶が差し出された。 「これで許してくれ」 ぱちくりと目を瞬かせて横を向いてみれば、見知った男が苦笑を浮かべている。 撫で付けられた白髪混じりの髪、綺麗に口周りの髭を整え、渋い色のスーツをそつなく着こなした、40代の落ち着いた顔立ちの男。 いつもならば、物で許してやるつもりは毛頭ない。しかし目の前のコーヒー缶を右手で取り上げると、小さく呟く。 「――仕方ねぇな。許してやるよ」 「すまん」 諦めたような口調で呟くと、男――白石は短く謝って、もう一度苦笑を浮かべてみせた。 最近、気が付いた。 この関係が、何で続いているのか。 これは、きっと中毒だ。 熱を貰って、温もりを貰って。 いつしか、それに溺れてしまうのか。 連れて行かれたラーメン屋は、確かに美味かった。 注文したもやしラーメンは丼から溢れそうなほど炒めたもやしが乗っかっていて、麺が見えないと二人で爆笑して。 調子に乗ってお奨めの餃子もそれぞれ追加した。 その次の洋菓子店では、ショーケースに並べられた色とりどりのスイーツをひたすら眺め、彼を呆れさせた。 結局散々悩んで、いくつかのケーキを詰めてもらった。 「……で」 「何だ?」 「何でおれたちは、こんな所にいるのかねぇ?」 駅から程近くにある、ウィークリータイプのマンションの一室。 ベッドに圧し掛かられて、黒崎はじっとりと彼を睨みつけた。 部屋の内装はあまりにも簡素だが、広い。 ダブルベッドが一つ、分厚い建築関係や判例集などの書物がぎっしりと並べられた本棚がいくつか、パソコンデスクにはノートタイプのパソコンが置いてあるだけで、他は何もない。 あとは大画面のフラットタイプのテレビに、備え付けたテレビ台の中にブランデーやウイスキーなどのミニボトルが、ぽつぽつと並んでいるだけ。 黒崎にとって、確認するまでも無い。ここは、白石が住んでいるマンションの一室なのだ。 過去に何度か通ったことのある道を走っていることに気が付いて、しまったと後悔したのだが、時既に遅し。 手を掴まれて部屋に連れ込まれて、途端にこの有様だ。 「……おれのケーキ」 「そんなもん、後でいいだろ」 「ケーキの方が先だ」 「残念だが、まだお預けだ」 「何でだよ」 むう、とむくれる黒崎に、白石が低い声で囁く。 「先に、お前を食わせろ」 「やだ。おれ、喰いもんじゃない」 ぷい、とそっぽを向くと、何かが耳に触れた。 何だろう、と思う間もなくそこにちりっとした軽い痛みを感じて、無意識に身体が竦む。 「俺が、食いたいんだ」 吹き込むように、囁かれる低く掠れた声。 その響きに、ぞくりとした。 この声は知っている。自分を縛って、陥れて、そして抗う力を奪っていく。 だから黒崎は、難しい顔をして彼を睨みつけると、 「……あんたって、嫌な男だな」 ただそれだけ、呟いた。 勝手に上がっていく身体の熱に追い討ちをかけるように、優しく滑る大きな手のひら。 荒くなる息を奪うように、重なってくる唇の感触。 耳元で繰り返し聞こえてくる、優しい囁き。 およそ自分のものとは思えない、女みたいに高い声。 身体の中を貫く、熱い衝撃。 ゆっくりと優しく、しかし徐々に激しくなるリズム。 それを、黒崎は全て知っている。 知りたくないと思っていたのに、いつしかそれしか感じることが出来なくなる。 きっと、溺れてしまうのだ。 それによってもたらされる感情が、どんなものなのかも知らずに。 ただ、与えられる何かを、ひたすら享受して。 「う、あっ。……は」 「ほら、腕は……」 シーツを強く握り締める手をやんわりと解かれ、あやすような仕草で肩に巻きつけさせられる。もう一方は、とっくに彼の首にしがみ付いていた。 「爪、立ててもいいぞ」 「……ばっ……か、じゃねぇの、っ」 低く、優しい促すような囁きに、喘ぎながら一蹴してみせる。 こんな時にまで、この男に振り回されるのが嫌だから。 だが所詮、口先だけの強がりだ。 「ひっ、……!」 突如、身体の中をかき回されるリズムが激しくなり、口から引き攣れた悲鳴が上がった。 そのまま叩きつけるような動きに翻弄されて、何も考えられなくなる。 痛み、苦しさ、辛さ、心地よさ、暖かさ。 それらが自分の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、もう何がどうなのかすらわからない。 互いが吐き出す、荒い息すら遠い。 「――や、っ……あっ、も、ぉ……っ」 何もかも判らなくなって、一気に頂上の先へと押し上げられる直前。 縋りついていた手は、彼の肩に爪を立てていた。 気が付いたら、心臓の鼓動が耳に届いていた。 顔を上げると、穏やかに笑っている白石が視界に飛び込んできて、彼に抱きかかえられたまま眠っていたのだと悟る。 慣れない余韻に、何とか身を捩じらせて腕を振り解こうともがく――が。 「……って……」 腰の辺りに響いた鈍痛に、顔を顰めてそのまま丸くなる。 どれだけ抱かれていたのか判らないが、この分だと確実に足腰が笑っていることだろう。満足に立てる自信もない。 「あんまり無理するなよ」 「無理させてんのはどこのどいつだか」 「まあ、確かに」 苦笑交じりの声に、ドスの効いた口調で返す。 白石は、やはり苦笑いを浮かべたままで、黒崎の頭を優しく撫でた。 子供扱いするのはやめて欲しい、と思う。それなのに、当の本人は短く刈り込んだ黒い髪の感触が楽しいのか、飽きもせずに撫でてくる。 「ガキ扱い、すんなよ」 「してないさ」 「してる」 「してないって」 のらりくらりとかわされて、これ以上むきになっても余計に疲れるだけ。 そう判断を下した黒崎は口を閉ざし、長く息を吐いて目を閉じた。 「黒崎」 囁くような呼びかけには、敢えて応えない。 「――早く、俺に落ちてくれ」 いつもの言葉が落ちる。けれども、それにも反応しない。 「本気なんだ。お前に」 優しく、けれど苦しそうで切ない声。 「お前じゃないと、駄目だから」 静かな囁きは、少しずつ心の中に積もっていく。 でも、だからといって、それに甘えるわけにはいかない。 彼も、敵なのだ。 他の奴らと同じように、哀れなカモから金を毟り取り、食らい尽くすシロサギ。 そう認識しているからこそ、彼に正面切って食らい尽くすと宣言したのに。 「……駄目、だよ」 「黒崎」 ゆっくり、消え入りそうな声で呟いた言葉に、白石がまた名前を呼んだ。 これは何なんだろう。苦しくて、切なくて、潰されてしまいそうで。 「人を好きになっちゃ、いけないから」 酷い言い訳だ。しかし闇の世界で生きる決意をした自分にとって、覆してはならない不文律。 溺れてはいけない。 彼の与える温もりにも、優しさにも。 「だから、あんたのことも、誰も好きになれない」 「……」 白石は、何も言わなかった。 「溺れちゃ、いけないんだ」 これ以上、中毒に侵されてしまわないうちに。 ぬるま湯のような優しさや、温もりに溺れてしまわないように。 不意に馴染んだ体温が離れて、黒崎は顔を上げた。その視線の先には、どこか寂しそうな、やるせないような苦笑を浮かべた白石が、何も着ていない姿のままで起き上がっていた。 「――シャワー、浴びてくる」 「勝手にすれば」 そっと落ちてきた言葉に、そっけなく返して寝返りを打った。 そこで初めて、自分の身体が誰かによって拭き清められているのだと気が付く。 多分彼がしてくれたのだろうと思ったが、敢えて口にはせずにそのまま目を閉じた。 「……俺は、とっくにお前に溺れているのにな」 自嘲の響きすら滲ませた、白石の言葉を、黒崎は敢えて聞き流した。 溺れてしまえばいいのに。 でも溺れてはいけない。 中毒になってはいけない。 だけど。 堂々巡りの心が、軋みを上げる。 まるで性質の悪い中毒症状のように。 |