あたたかなあさ 「……う」 小さく呻いて、黒崎はふと目を覚ました。 見たことの無い天井に、違和感を覚える。ここがどこなのかわからない。とりあえず自分のアジトであるアパートではないことは確かなのだけれど。 自分はベッドの上に寝かされていた。周りを見渡してみても、清潔な白いシーツの海が柔らかく横たわっている。 そのまま、ゆっくりと起き上がる。柔らかい毛足の毛布がずり落ち、まろび出るしなやかな裸体。 「!」 驚いて、黒崎は咄嗟に己の胸の辺りを両手で隠した。 何故、どうして。 自分は裸で寝ているのだ。どこなのかもわからないところで。 「――あ」 起き上がって視界が変わると、また見えるものも違ってくる。ベッドの下には、白く長い布がとぐろを巻くように落ちていた。さらに、少し分厚い布も。 「おれ、は」 訳が判らず、それでも状況を把握しようと、部屋の中をじっくりと観察する。 フラットタイプのテレビに、据え付けられたテレビ台。その中には、小さな洋酒のボトルが何本も並んでいる。さらに見回すと、スチール製の無機質な本棚が一つか二つ。法律関係の書物に混じって、建築や設計に関する分厚い専門書もぎっしりと並んでいるのが見えた。 ――そうか。 「……女に、なったんだ」 そういえば下着も身に付けていないし、腰の辺りには鈍い痛みも感じる。 少し身体をずらしてみると、足の間には茶色っぽく変色した染みが点々と残っていた。 ここまで材料が揃っていれば、やっと実感も湧いてくる。 自分は、男に抱かれたのだと。 そもそものことの始まりは、見知らぬ男たちに絡まれたことだった。 黒崎本人はすっかり忘れていたのだが、ようやく以前潰したシロサギの残党だったのだと思い出す。 人気のない細道に連れ込んだかと思うと、途端に始まった暴力。 顔や腹を殴られ、蹴られ。幸い固い綿を詰めていたお陰で、腹には痣が出来るほどのものではなかったが、それでも相当に効いた。 もともと黒崎は荒事に慣れていないし、それよりも口八丁で丸め込む方が得意なのだ。 だから、いきなりのリンチに対応できるほどの身体能力を持っていないのが災いして、呆気なく道端に倒れ伏した。 そこからが問題だった。 誰かが恐ろしいことを言ったのを思い出す。 『こいつを犯してやるか』――と。 瞬間、背筋に走る冷たい何かに、黒崎は戦慄した。 やめろ、それだけは。 気が付いて抵抗したものの、大人数での相手に適うはずは無かった。 散々暴れる手を押さえつけられ、黒いコートの前を開けられ。 下のトレーナーを、一気に引き裂かれた。 時間が、その時止まった。 『……こいつ、女だ』 『おい、丁度いいんじゃないのか』 『どうせなんだから、楽しませてもらおうか』 徐々に近づく男たちの手。 意識が真っ白になって。 何もかも考えられなくなって。 そこで初めて、黒崎は悲鳴を上げた。 「いやあああああっっっっ!!!」 固く目を瞑った黒崎の耳に届いたのは。 男たちの怒号。誰かの低い、怒気を孕んだ声。 それから、何かを殴る音。 それが暫く続いたと思ったら、突然辺りが静かになった。 「――ぃ、おい。黒崎」 ぺちぺち、と軽く頬を叩く音に、黒崎はゆっくりと目を開ける。 その視界に飛び込んできたのは、いつか見た中年の男の顔。 撫でつけた髪に、少し色の違う眼鏡、綺麗に整えた口元の髭の男は。 「……よかった。無事だったか」 「……し、らいし……?」 震える声で呟くと、それきり、黒崎は意識を失った。 あとは、何となく覚えている。 気を失った自分を介抱してくれていたことも。 シャワーを借りて、恐怖で震える身体を温めたことも。 殴られて痣になった顔のあちこちを、手当てしてくれたことも。 そして。 結局自分は女であることを捨てきれなかった。男に抱かれることを覚え、その暖かさを覚え。さらわれる心地よさを知ってしまった。 けれど、何故だろうか。それを屈辱だとは、感じてはいなかった。 むしろ、それが当然だったのかとも思う。 初めてだと知った彼は、自分を優しく撫でてくれた。 大丈夫と何度も囁き、包み込むように抱きしめて。 一つに繋がった瞬間は確かに痛かったけれど、それだけで。 あとは、あやすような優しさだけが残った。 「黒崎。起きたのか」 不意に背後から投げかけられた声に、はっと顔を上げる。 見れば、この部屋の主がバスタオルを頭から被った格好で立っていた。 髪の水分を拭い取るためか、撫でつけているはずのそれはぐしゃぐしゃに乱れていて、白いシャツとベージュのチノパンを履いた姿。 「……うん」 もぞもぞと毛布を胸の辺りでかき寄せて、小さく頷く。 そうか、と笑って、彼――白石はシャツを脱ぐと、自分の肩にそれを掛けてくれた。 「夕べは、悪かったな」 「え?」 少しの沈黙の後。 不意に小さく言った白石の言葉に、黒崎は顔を上げる。 「俺は、大変な目に遭ったお前につけこんで、こんなことをしちまったんだから」 少し苦笑を浮かべ、優しい声で言葉を続けた。 確かに男たちの暴行から救ったのは白石だし、すっかり弱った自分を抱いたのも彼だ。 けれど、それに対して嫌悪は感じなかった。 「それでも……。いや、だからこそかも知れないが。俺は、お前が欲しいと思った。男だろうが、女だろうが、関係なく」 「……」 真っ直ぐ目を見て、告げる白石の眼差しが。 「お前は、きっと怖かっただろうにな。それでも、抑えられなかったんだ。自分の気持ちは、よく知っているから」 「……」 怖いとか、そんなんじゃなかった。 心にあった感情は。少なくとも。 「俺のことは、憎んでくれていい。ただ、これだけは覚えておいて欲しい」 「……」 掌の暖かさを。髪を撫でる優しい手つきも。低く囁く声も。全部覚えている。 「俺は、お前が好きなんだってことを。頼むから」 「……」 そうだ。自分は。 この男がシロサギだと判っていても、何故か憎むことが出来なかった。 その理由は。 「……憎めないよ」 「黒崎?」 ぽつりと言った言葉に反応して、白石が首を傾げる。今ここではっきり伝えて、知っておいて欲しかった。 「あんたのこと、憎めるわけねぇよ。そもそも、あんたのこと憎めなかったんだ」 白石の眼差しを真っ直ぐ受け止めて、黒崎はゆっくりと言葉を選ぶ。 間違えないように。自分の気持ちを、裏切らないように。 「おれ、あんたのこと嫌いじゃないみたいだし。だから、憎めるわけがないじゃん」 小さく。本当に小さく、笑ってみせる。 初めて男に抱かれても、自分は変わらなかった。 それよりも、知らなかった部分はたくさんあったと思う。 掌の暖かさも。優しく撫でてくれる手つきも。抱きしめて感じた肌の熱さも。 それから、何度も耳に届いた、優しくて心地いい声も。 白石がぶつけた感情の一つ一つが、不思議と黒崎の心に優しく染み渡っていった。 それはきっと、彼を憎めなかったから。心のどこかで、彼を好きだと感じていたから。 今度は、ちゃんと伝えたい。 不器用でもいいから。捻くれてもいいから。 「何だ、口調が元に戻っちまってる」 苦笑して言った白石の言葉に、黒崎はふと首を傾げた。 別に意識して男の口調にしているわけではない。自然と出てしまうのだ。 男を演じることを決めて以来、ずっと意識していたが、今では男言葉の方が自分に馴染んでしまっている。ただし、ごくまれに本来の口調が出ることもあるが。 「抱かれてる最中は、可愛い女の子だったのに」 「黙れよ、このエロ親父」 くつくつと笑いながら言われて、思わず軽口を叩いた。心なしか、頬も何だか熱い。 すっと伸ばされた手が、短く刈り込んだ髪を撫でる。その手つきが心地よくて、何時の間にか目を閉じてされるがままになっていると、唇に何かが優しく触れた気がした。 はたと目を開ければ、優しい笑みを浮かべている白石の顔が、こちらを見つめている。 「ま、気長にやるよ」 「何を?」 「お前が、可愛い女の子でいられるように」 「いらねぇよ。余計なお世話だ」 「別に、四六時中そうしてろって訳じゃないさ。俺の前でだけ、本当のお前を見せてくれたらいい」 何でもない気楽な彼の口調が、肩の力を抜いてくれた。 頭を撫でていた手が背中に回って、壊れ物を扱うみたいに抱き寄せる。裸の胸から伝わる白石の心臓の音が、涙が出そうなほど懐かしくて、心地いい。 「そういうもんだろ?」 「……うん」 抱きしめてくれる彼の体温の心地よさも手伝ってか、黒崎は小さく頷いた。 暖かな朝は、ほんの切っ掛けに過ぎない。 これから自分がどう変わるのか、あるいは変わらないままなのか。 どちらに転ぶのか、まだ黒崎には判らない。 けれど、この日だけは、大切にしようと思った。 |