幸せな昼食を 大学からの帰り道。あたしは、意外な人物を見かけた。 「おーい、黒崎?」 「あ?」 くるっと振り返った黒崎は、苦笑いをしてこちらに近づいてくると、片手を上げて『よう』と声を掛けてきた。 あんたね、今のそのカッコだと、ちょっとおかしいんじゃない? そう思って、あたしも思わず苦笑い。 黒崎はいつもの味気ない黒いコートとは違って、アイボリーのレースのカーディガンに、白いロングのワンピースを着ていた。足元はストラップのついたヒールの低いサンダルを履いていて、誰が見ても可愛らしい少女にも見える。 そんな子が、男みたいに片手を上げる挨拶をするのは、ちょっとおかしいけれど。 それも黒崎らしいかと思い直し、同じように『よう』と片手を上げた。 彼――もとい、彼女の正体を知ったのは、何でもない偶然だった。 家賃を持っていくためにドアを無造作に開けたのが運の尽き。 丁度シャワーを浴びたところだったらしい黒崎と、ばったり鉢合わせしてしまったのだ。 そのときの呆気に取られた表情は、今でも忘れることは無いだろう。 白くて綺麗な肌に、小さく膨らんだ胸。 あたしはそこで初めて、黒崎が女性だと知ったのだ。 「どうしたの、今日は」 尋ねると、少し恥ずかしそうにはにかんで、黒崎は待ち合わせで、と答えた。 なるほど。 短すぎる髪を丁寧に櫛で梳いて、目一杯お洒落して。 よく見ればその幼さの残る童顔(本人は気にしているらしいけど)には、薄いナチュラルメイクまで施されている。 「うん。似合ってるよ」 「ばか」 じっくりと見分してから微笑んで言うと、黒崎は耳まで真っ赤にして小さく呟いた。 「待ち合わせはいいけど」 「ん?ああ」 黒崎は思い出したように頷くと、高速で渋滞に捕まったらしい、と説明した。 「さっきニュースで知ったんだけど、東名のどっかのインターチェンジあたりで事故があったらしくて。運悪くその渋滞に巻き込まれたんだと」 「うわ。じゃあ、大分待つんじゃないの?」 「いや、脇見渋滞だって言ってるから、そう長くはかからないと思うけど」 だから昼食まだ食べてなくて、と苦笑する黒崎に、あたしは笑って提案を一つ。 「じゃあさ、今からその人が来るまで、この辺のカフェでお昼にする? あたしも、丁度お昼食べてないから」 「んじゃ、そうしようか」 あたしたちは、もう一度笑って頷いた。 入ったのは、黒崎の待ち合わせ場所から目と鼻の先にあるオープンスタイルのカフェ。 ここは、以前友達と行ったことがある。 「ここのパスタ、すっごく美味しいのよ」 「そうなんだ。じゃあ、パスタにしようかなぁ」 道路側に面した四人掛けのテーブルに通され、メニューを開いてどれにしようか二人で悩む。店員さんには後で注文すると言っておいて、ひとまず出てきた冷たい水で一段落。 「あたし、バジルにしようかな」 「じゃあ、どうしよう。カルボナーラもいいし、こっちのクリームソースも美味そう」 「こないだ、あたしはこれを食べたの。美味しかったよ」 言って、あたしはメニューの中の写真を指先で指し示す。それは『スモークサーモンときのこのクリームパスタ』という奴で、友達と絶賛していたのだ。 「ほほう。そういうもんばっか食べるから余計な肉が」 「ううっ、言わないで。――そういえば、あんたって本当に太らないよね」 「まあね、どこで消化されてるのかわかんないけど。いい加減この辺にはもうちょっと脂肪が欲しいなぁ」 困ったように言って、黒崎は自分の胸を手に当ててみせる。普段さらしを巻いて胸板にしているそこは、今日はちょっと可愛らしく膨らんでいて。 そこもきっと可愛いところなんだろうな、と思ったが、言わないコトにした。 「ん、決まった。お前は?」 「あたしも決まったよ」 「よし。すいませーん」 黒崎が店員さんを呼ぶ間、あたしはメニューを閉じて待った。 あたしはバジルソースのパスタのセットを注文して、黒崎は悩んだ挙句に絶賛していたクリームパスタのセットを注文した。ドリンクやサラダ、デザートもそれぞれ細かく言って、店員さんが下がる。 「ところでさ、黒崎」 「ん?」 ごそごそとタバコをバッグから取り出す黒崎に、あたしはにやにや笑いを止められずに尋ねる。 「あの人とは、上手くいってる?」 「う」 早速落とした爆弾に、過剰に反応した黒崎。あっけないほどぼっ、と顔中が真っ赤になっている。可愛い。 「……あのなぁ」 あー、うー、とちょっと変な声を上げた後、テーブルに突っ伏してから。彼女は恥ずかしそうに見上げた。 ほらほら。そんなに可愛い反応してると、もっといじりたくなるでしょう? それじゃ、いつもの詐欺師としてのポーカーフェイスが台無しだぞ。 「ねぇ、どうなの? 上手くいってる?」 「……うん。結構」 あら、いいことじゃない。仲がいいのは結構なことです。 恥ずかしそうに頬を染めて、ちょっと幸せそうな笑みすら浮かべて。 そんな彼女の表情を見るにつけ、あたしはちょっと複雑な気分になる。 「本当、どうしてあんたに好きだ、なんて言ったのかなー。あたし」 「そのときは、ほら。お前って女だって知らなかったろ?」 「そりゃそうだけどさぁ。後で考えたら納得できたけどぉ」 実は以前、あたしは黒崎に告白したことがある。そのときは結局、振られた形になったのだけれど、考えたら女が女に告白されるのはそれなりにびっくりだと思った。 「昔っからさ、女の子に告白されるのって、よくあったし」 「え、昔から?」 「うん、昔から。同年代の女の子よりも背もあったし、よくラブレター貰ったりもしたし」 「じゃあ、そういう前歴はあったんだ」 「そう。おれもさ、お前みたいな、ちっちゃくて可愛い女の子に憧れたりもしたし」 「ええー?!」 「本当だって。すっごく思ったもん、羨ましいな、ってさ」 タバコに火をつけながら、苦笑する黒崎。今の彼女の姿から、全然想像もつかないほど可愛らしい過去の話に、あたしは結構驚いた。 今の彼女は、付き合ってる人がいるせいか、あたしよりも綺麗で可愛い人だと思う。 恋をすれば女は変わる。誰が言ったのかは覚えてもいないけど、彼女を見るにつけ、そう思うのだ。 しばらくすると、注文したサラダやパスタが運ばれてきた。あたしたちはそれぞれフォークを手にして、ちょっと大きなお皿のパスタと格闘する。 「あ、これ美味い」 「でしょ。ホワイトクリームが全然くどくないの」 「うん。凄く優しい味。ホワイトクリームって、結構しつこいのが多いけど、これはあっさりしてる」 「こっちのバジルも美味しいわよ。……一口食べてみる?」 「あ、食べてみたい。こっちの一口やるから、交換」 「ええ、どうぞどうぞ」 きゃあきゃあとはしゃぎながら、あたしたちは食事を楽しむ。 そういえば、黒崎が女性だと判ってからも、あたしとの付き合いはあまり変わりはしない。 普通に話をするし、猫に構ったりもするし(あたしが)、男だと思っていた時とは、何ら変わらない。 それは彼女が、あたしに『女だと判っても、見方を変えるのはやめろ』と言って来たから。 黒崎は、どんな思いで、そう告げたのか。あたしは判らない。 けれどそれが彼女に対する礼儀だと思うし、女性の扱いをされるのに慣れていないからだとも思うから、あたしはいつもどおりの応対を心がけている。 こうやって、女の子同士として、笑って話をするようになったのは、ごく最近のことだ。 だからこそ、あたしは思う。 あんたが思ってるほど、人はずるく生きてるんじゃないんだよ、と。 食事が終わると、黒崎は『ちょっとごめんな』と断って、バッグから小さなケースを取り出した。それは透明なプラスチックのケースで、細かく仕切られた中にはシートを切り取った薬がぎっしりと並んでいる。 「え、あんた何か病気してたっけ?」 「違う違う」 その圧倒される量に思わず尋ねると、黒崎は苦笑して手を振った。 「ピルだよ。低用量の奴」 「へえ」 あたしの周りには、そういうものを使用している子がいないから、話を聞いているだけならともかくとして。実物を見るのは初めてだ。 「初潮が遅かったせいもあるのかな、昔から凄い生理が不規則で。仕事してる最中に貧血なんかでばたっと倒れたりしたらカッコ悪いだろ? だから、こうやって病院で処方してもらってんの」 そんなことを言いながら、黒崎は慣れた手つきでシートからぷちんと薬を押し出している。さすがにこんな話はカフェでするのも憚られて、声を潜めて尋ねてみた。 「初潮、そんなに遅かった?」 「十五で初めて。誰に言ってもびっくりされるよ」 「遅いわねぇ。あたし十二くらいだった」 「うん、周りの子、皆そんな感じだからさ。おれだけ一人取り残されて、どうなるんだろう、って心配したこともあるし。……ま、今となっては懐かしい話だよね」 小さな錠剤をぽいと口の中に放り込んで、水と一緒に飲み干すと、黒崎は小さく微笑んだ。 「そういうのって、避妊に使うんじゃないの?」 「それもあるんだけどさ。これはホルモンの量を調節して、毎月規則正しく生理が来るようにしてくれるから。おかげですっごい楽にやってるもん」 あたしはそういうもののお世話になったことが無いから、知識といえば聞きかじった程度のものでしかない。それに比べ、実際使用している人間からの情報はとても重要で、しかも参考になる。 黒崎は、あたしの疑問にいちいち面倒がらずに丁寧に答えてくれた。副作用がどういうものだとか、勿論自分も聞きかじった程度の知識でしかない、と前置きした上で。 「短期間でさ、――例えば旅行とかでずらしたい時とかは、高用量の奴とか使う人もいるけどね。おれはもう、それも計算した上で仕事するようにしてるから、このまま」 「ふーん。あたしの友達でも、不規則で悩んでる子がいるから」 「そういうのは、まず病院で診てもらってからにした方がいいよ、絶対。おれでもやっぱり、生兵法でやるのは危険だって思ったし」 空になったシートを片付けて、彼女は優しい顔でそう言った。 「ところで、黒崎ってさ」 「んー?」 「あの人のこと、どうして好きになったの?」 「……まだそれを聞くか、お前」 勘弁してよ、と真っ赤になった顔には書いてるけど、さらっと流してやるほどあたしはお優しくない。 覚悟しろ。一杯惚気を聞いてやる。 「いいじゃない。あんたには、まだまだ聞きたいことあるし」 「……例えば?」 「どこまでいったか、とかぁ」 んぶ、とストローを咥えた黒崎が、アイスカフェオレを噴いた。 物凄く純情な反応に、あたしは思わず笑う。初めて会った時のふてぶてしい表情をしていたあの時からは、全然想像もつかない。 もしもタイムマシンがあったなら、その時のあたしにこいつはこんなに可愛い女の子なんだよ、と教えてやりたい衝動にもかられる。 「それにあんた、先週の夜家にいなかったでしょ。あの人のとこ行ってた?」 にやにやしながらさらに言及するあたしに、とうとう困ったように手を振り上げる黒崎。 本当に可愛い子。 きっと、とても素敵な人と、恋をしているからなんだね。 だからこそ、ついついこうやってからかってしまうんだけど。 「ね、ね。言っちゃいなよ。ほら」 「もう……」 眉を下げて、少し考え込む仕草をして。 やがて、黒崎は言葉を選びながらゆっくりと。 「……うん。何でかは判んないけどさ。前に、あいつも詐欺師なんだって話、お前にしたろ?」 「うん」 つまり、彼女の恋人は同業者。本人は『商売敵』と言ってるけど、それは今は端っこに寄せておく。 「でもおれ、あいつのこと憎めないんだ。何で憎めないんだろう、って考えてたら、それはあいつのことが好きなんじゃないかって思えてきて。そこから」 「恋人さん、優しい?」 「うん、優しい。いつもは普通どおりに振舞ってくれるし、二人だけの時は」 そこまで言いかけて、黒崎はまただんまりを決め込んだ。 こら、続きが気になるでしょ? 「……二人の時は、おれのこと、女の子として扱ってくれるし。昔から小さい女の子に憧れてたからかもしれないけど、あいつといる時は、自分も女なんだって実感できるから」 ゆっくりと、優しい瞳で言う黒崎。 ねぇ、幸せだって感情、透けて見えるよ? 本当にあんたって、その人に愛されているんだね。 ちょっと妬けちゃうぞ。こら。 「……その人のこと、黒崎は好きなんだよね?」 あたしは、改めて尋ねた。ただの確認。 その問いに、黒崎は柔らかな表情で、答えた。 「うん。凄く好き」 「――そっか。よかったね」 その顔は、まっすぐあの人に向けられた感情で。とても可愛くて、優しい目で言うから。 あたしは、心から思って言った。 デザートを追加しようか、と相談して、メニューを持って来て貰おうとした頃に、黒崎の携帯が鳴り出した。 彼女は『悪い』と断って、バッグから携帯を取り出した。ぱくん、と二つ折りの携帯を開き、発信者を確認すると、軽く片目を瞑ってみせる。 「もしもし。……うん。案外早く抜けられたんだ?」 楽しそうな黒崎の口調で、相手が誰だか判ってしまった。 今更説明するまでもない、黒崎にとって大切な人。 「おれ、近くのカフェにいるから。……そう、窓際の。ほら、手を振ろうか?」 言いながら、彼女は道路側に向かって大きく手を振った。大きなガラス窓の向こうで、同じように手を上げている人の姿が見える。 「……ん? 判ったよ。でも、今回は奢りな。あんたが遅刻したんだから。……はいはい、じゃ」 電話を終わらせて、黒崎がこちらを振り返った。 「今こっちに来るから、どうせだし今日の会計、全部あっちに持たせよう」 「ええ、いいよ。あたしは払うから」 「いいのいいの。あいつも言ってるし」 そんな問答をしている時に、新しく客が来たようだ。ふと見れば、こちらに近づいてきている。 「悪い、遅くなった」 「本当に悪いよ」 軽口を叩く黒崎に、その人は苦笑いを浮かべた。 一見、黒崎とは親子ほど歳の離れた、四十代くらいの男性。口元の髭といい、ちょっと悪い感じのオヤジというイメージだけれど、着ている落ち着いた色のスーツも相まってか、纏っている空気はとても柔らかくて、上品な印象を受ける。 「やあ、お嬢さん。久しぶり」 「お久しぶりです。白石さん」 すぐにあたしにも気が付いて、優しい声をかけてくる。 頭を軽く下げて挨拶すると、同じように頭を下げてくれた。 この人が、黒崎の恋人さん。 黒崎を見てる眼がとても優しくて、羨ましいな、と思ってしまう。 「メニュー見ます?」 「ああ。渋滞に巻き込まれて、昼飯がまだだったもんだから、腹が減ってしょうがない」 苦笑しながら、差し出したメニューを受け取った彼の横で、黒崎は無言で灰皿をそっと真ん中の方に寄せていた。彼もタバコを吸う人だと判っているから、自然とそんなことが出来てしまうらしい。 「なあ、デザートはどうする?」 黒崎が問い掛けてきたけれど、これ以上あたしは長居しようとは思わない。折角のデートを邪魔するわけにもいかないでしょ? 「ん、いいよ。あたしこれからバイトだし」 「そうかい?」 こちらを向いて、白石さんも残念そうに声を掛ける。 いいのです。こんなに幸せそうな二人を見てれば、デザートよりも甘い空気でお腹一杯になっちゃう。 「邪魔者は退散します。頑張ってね、黒崎」 「お前なぁ!」 恥ずかしそうに声を上げる黒崎に構わず、あたしは自分の食べたセットの料金を置いていくと、またねと彼女に手を振った。 お店を出て、ふと後ろを振り返ると。 窓際の席で、二人が楽しそうに話をしているのが見えた。 頬杖をついて、優しい表情で相槌を打つ白石さんに、ストローを弄びながら黒崎が幸せそうに話す姿。 ねぇ、幸せでしょう? 黒崎。 そんな優しい人に愛されて。そんな人を好きになれて。 いつかは……ね。 「お幸せに。お二人さん」 あたしは小さく呟いて微笑むと、バイトに行くべく走り出した。 |