好きという気持ち 1 最近、胸が苦しくなることに気が付いた。 それに気付かなければよかった、と。黒崎は苦い気持ちで思う。 己の中で、確かに芽生えている柔らかな気持ち。 いっそ無視して、蓋をして、いつもどおりに生きていければいい。そう思っていたのに。 苦しくなる胸の内は一向に納まるどころか、切ない痛みを増すばかりだった。 原因はとっくに判っている。 あの男が、自分なんかに好意を持っているから。 勘違いするな。黒崎は己に言い聞かせる。 ただの幻覚と聞き流せ。奴がどういう奴なのかを思い出せ。 敵なのだ。愚かなカモから金を搾り取るシロサギなんだと。 そんな奴に惑わされるな。自分の覚悟を、根底から覆すような。 そんなことは、あってはならないことなのだ。 けれど。 どんなに己を戒めようとしても、ふとした拍子で浮かび上がる、囁くような声。 自分自身に、そこまで嘘をつくのか? と――。 目覚めは最悪だった。 もぞりとベッドから這い出た黒崎は、乱れてぐしゃぐしゃになった短い髪をさらにがしがしと掻き毟る。 枕もとには、交渉術の解説書がページを開いたまま伏せてあった。夕べ、寝る直前まで読んでいたものだ。他にも法律関係の分厚い書物がいくつかベッドの上に散らばっている。 未だに側で呑気に寝ている黒猫を足で押しやり、ゆっくりと起き上がった。 「……まただ」 心底忌々しそうに、黒崎は小さく呟いた。 黒崎の目覚めが最悪だったのは、夢を見たからだった。 昔から、悪夢はよく見る。憔悴しきった父親が、家族を、そして自分を刺す夢。 血まみれの自分、横たわった母親、涙を流しながら、震える声で一緒に死のうと繰り返し呟く父親。 だが、見ていた夢は、そんな凄惨な過去の夢ではなかった。 最近よく見る夢は、あの男が出てくるのだ。 その中の自分は、幸せそうにはにかみながら、彼の肩に寄りかかっている。 到底今の自分からは考えられないほどの優しくて柔らかい笑みは、どう見ても少女のようなそれで。 そして彼は、微笑む自分の髪を何度も撫でながら、優しい笑みを浮かべていた。 言葉は一切交わさない。その代わり、二人の間に流れる空気は、穏やかな陽だまりを感じさせるように、優しい暖かさで満ちている。 この温もりが、ずっと傍にいてくれたら、と思わせるような。 洗面台で顔を洗った黒崎は、鏡の中の自分を睨みつける。 何だって、あんな夢を見るんだ。 彼との関係は、遊びなんじゃないのか。ずっとそう思って、呼び出しに応じてきたはずなのに。 気が付けば、彼からの連絡を心待ちにしている自分がいて、都合のいい考えに愕然とした。 「あいつはシロサギだろうが」 誰にもなく呟くと、乱暴に歯磨き粉のチューブの中身を歯ブラシに搾り出し、手荒く歯を磨き始めた。 また、一日が始まる。 午前中は自宅でじっとしていて、黒崎は読みかけの交渉術の書物を開いた。 耳では、交渉のポイントなどを収録したCDを聞いている。開いた書物の横には、びっしりと書き込まれたノートまで開いてあり、余りない空きスペースに要所を事細かく記している。 黒崎は今、同業者を食らう『クロサギ』を生業としている。 あの日、父親の凶刃を食らったときから。運命は大きく捻じ曲げられた。 父親を嵌めたシロサギを憎み、選んだ道は裏の世界の住人として生きる事。 同じ詐欺師として、詐欺師を潰す道を選んだのだ。 そしてあの日を境に捨てたものがもうひとつ、あった。 それは、一人の女性として、ささやかな幸せをつかみ取る道だった。 まだ幸せだった家族の写真の中で、一人だけを塗りつぶした笑顔。 それは、まだ何も知らない、無知で無力だった自分の顔。 黒崎は女としての道を捨てる代わりに、詐欺師を潰すだけの力を手に入れたのだ。 そのコトに後悔はしていない。そして、絶望もしていない。 どれだけ潰しても次々と沸いてくるカモの存在に呆れながらも、ひたすらにシロサギだけを狙い、喰らっていくだけだ。 ふいに、耳元で不愉快な振動音がCDの音声に割り込んできた。音の方を見やると、テーブルの上で充電器にさしっぱなしにしていた携帯電話が着信を知らせていて、黒崎は舌打ちしながら渋々携帯電話を取る。 耳に差し込んでいたイヤホンを抜き取り、新しく携帯電話に繋いでいるイヤホンマイクを押し込むと、通話ボタンを押した。 「――はい、もしもし」 「起きていたようだな」 決して名乗らないが、その低い声で誰なのか判った。 全ての運命の捻じ曲げた、根源。 「仕事がある。クロ」 その言葉に、黒崎は口の端を吊り上げた。 「――有難いね。遠慮なく頂戴するよ、親爺」 斜に構えた口調にも関わらず、声の主は別段機嫌を損ねはしなかった。 「少しばかり大きい仕事だ。詳しく話してやるから、店まで来るか」 「勿論。でかいネタなら大歓迎さ」 言葉を二、三交わしただけで電話を切ると、黒崎はCDプレイヤーの電源を落とし、立ち上がる。 窓辺に掛かる黒いコートを取ると、鋭い瞳をぎらつかせて羽織った。 スナック桂の店内には、薄暗い照明の中で電話をしていた壮年の男と、スーツを着た金髪の男がいた。縁の太いサングラスの奥の目は、何の感情も見えない。 だが、何かが引っ掛かっているようなその視線に、低く声を掛ける。 「何がある、早瀬」 問われて、彼はついと顔を上げた。 「特には、何も」 「何もないか」 「はい」 短いやり取りだが、彼の返答に小さく頷き、カウンターに並べたグラスを磨きにかかる。 不意に入り口のドアが開く。そこに立っているのは、やや幼い顔立ちをした若者だった。 黒いカジュアルなコートを着込み、裾からは迷彩柄のズボンが覗いている。黒い髪は短く刈り込んであり、同じ色の双眸は冷ややかで、底の知れない危うさをも湛えている。 「来たか」 短く呟くと、ついと笑みを浮かべて口を開いた。 「でかいネタがあるとなれば、そりゃあ幾らでも食いつきますよ、親爺」 言ってカウンターの椅子に腰を下ろすと、ポケットの中をごそごそと探った。やがて取り出した棒つきの飴の包装を剥がすと、ぱくりと口に咥える。 若者――黒崎の嗜好の一つだ。その容貌と相まって少しやんちゃな子供に見られがちだが、これでも21になる。 「で、今回のネタってのは?」 「早瀬」 頷いた早瀬が近づき、書類を手渡した。大きな封筒に収められた写真や書類に素早く目を通し、黒崎は顔を上げる。 「……案外使い古されたネタだね」 「同じことを考える奴は、いくらでもいる。ということだ」 「確かに」 素っ気無く返すと、小さく苦笑して一枚の写真をちらつかせる。 年の頃なら三十代も半ばの優男が写っていた。何度か見たこともあるその詐欺師は、小銭稼ぎでその場を凌ぐくらいしか出来ない男だったはずだ。 しかし今は、あちこちの商社の役員たちに近づき、その資産を毟り取って回っている。 簡単に言えば、彼は『食いすぎた』のだ。そのため、今回の依頼者からこの詐欺師の排除を依頼された訳である。 「カモもまた、つまんない奴に引っ掛かったもんだ」 「その相手とは連絡を取れ」 ぽつりと呆れたような声で呟く黒崎に、あっさりと依頼者がいることを仄めかす。 きょとんとした顔でこちらを見て、どこにいるんだよ、と尋ねてきた。 「今回の依頼者に関する情報も、入っているはずだ」 「あ、そう」 ばら撒いた書類を封筒に直し、黒崎が椅子から立ち上がる。 「――そうだ、こいつの巻き上げた金額とか、調べられる?」 「少し時間は掛かるが、出来るはずだ」 「じゃあ、そっちも調べといて。それから、必要なものが出てきたら、またメールで送っておくよ」 頷くと、黒崎はひらひらと手を振って店を立ち去った。 「――六年か」 「何がですか」 ふと呟いた言葉に、早瀬が短く尋ねてきた。過剰なほどの黒崎に対する反応に、男――桂木はゆっくりとそちらを向く。 「あれが、この世界に入って六年になる」 「知っています。……ですが、何故男の振りを?」 早瀬は黒崎の正体を知っている、数少ない人間の一人だ。黒崎が女である事を知っているのは、自分たちと、彼女が住むアパートの隣人のほかに、もう一人知っている男がいるくらい。 「あれが言ったのさ。――『自分はアカサギにはなれない』――とな」 「だからですか?」 「そうだ。あれが――あの子が、女のままで生きていくには、この世界は厳しすぎる」 続けた言葉に、早瀬がふと表情を変える。読み取れないはずの寡黙な瞳が、何か違和感を感じたようだ。 「だが、あの子は男として生きる道を選んだ。どんなに辛くとも、そうあることを選んだ」 あの日、まだ幼い少女は、自分の目の前で長く伸ばしていたはずの髪をばっさりと切り落とした。ざんばらに短くなった髪のまま、静かな目をして。 『女を捨てる。男として生きる。だから』 この世界で生きる術を教えてほしい。彼女は、そう言って頭を下げた。 桂木はその時切った彼女の髪の束を、つい最近まで保管していた。彼女の誓いを忘れないように、自分と、黒崎本人を戒めるために。 「それでも――あの子はいつか、女であることを思い出すはずだ。その時は」 「その時は?」 早瀬が鸚鵡返しに問うてくる。 彼も知っているのだ。黒崎に、特別な感情を寄せている人間がいることを。 「その時になれば、わかるだろうな」 はぐらかすように言うと、早瀬は軽く頭を下げた。 「あ。……おかえり」 スナック桂から戻ってきた黒崎を出迎えたのは、廊下で黒猫と戯れている隣人の女子大生だった。 彼女は黒崎が管理しているアパートの店子で、吉川氷柱という。氷柱は、検事になるべく法学部で学んでいるが、女子大生にしては非常に地味な生活をしている女だった。 着古して毛羽立ったジャージにサンダル姿で、妙にでれっとした顔で黒猫と遊ぶ姿は、傍から見れば結構間抜けな光景に違いない。 「って、また人の猫と遊んでんのかよ、お前は」 「いいでしょ、私、今日はバイト休みなんだもん」 「だったら勉強すればいいだろ、未来の検事さんよ」 呆れた声にも構わず、氷柱は黒猫を抱き上げて舌を出した。 「言われなくても、勉強してますよーだ」 はいはい、と肩を竦め、黒崎は黒猫を返してもらおうと手を伸ばす。 と、氷柱は思い出したように猫を差し出しながら口を開いた。 「――そうだ、あんたにお客さん来てたみたいよ」 「あ? 客?」 「うん。四十代くらいの、おじさんだったんだけど」 「……!」 氷柱の言葉に、黒崎の目が大きく見開かれた。 四十代くらいの中年の男。 「それって、もしかして、眼鏡かけて……」 「――うん。髭生やしてて、髪を撫でつけた、背の高い人だったんだけど」 それは。 「……そいつ、何て?」 「ん、ちょっと出掛けてるみたいですって言ったら、その人『連絡するから』って伝えてくれって」 「……そっか」 ふ、と長い息をつく。氷柱が、あの男と接触しているとは思わなかった。 撫でつけた髪、口元に蓄えた髭、四十代くらいの、背の高い中年の男。 それだけ特徴が揃っていれば、黒崎の脳裏に浮かぶのはただ一人、あの男しかいない。 今、自分の感情を揺らがせ、迷わせている嫌な男。 黒崎は悟られないように顔を伏せて、小さく判った、と呟いた。 受け取った猫を抱いたまま、ドアを開けようとすると、氷柱がまた声を掛ける。 「ねえ、あの人と、どういう」 「おまえにゃ関係ねぇよ」 遮るように言い切ると、黒崎は乱暴にドアを閉める。 閉じたドアの向こうでは、氷柱が何か小さい声で言っているようだったが、そこまで気にする余裕などなかった。ずるずるとへたり込み、大きく息を吐く。 ――まさか、こっちにまで来ていたとは。 いや、時々、彼はわざわざ手土産を携えて、訪れた事も何度もある。だから、氷柱と鉢合わせる可能性は充分あるだろう。 ……でも。 「くそっ」 口の中で、小さく悪態をついた。 今確かに、心のどこかで嬉しいと感じている自分がいたのだ。 そんなことを考えている暇はない。クロサギの自分の仕事をやらなければ。 黒崎は軽く頭を振って立ち上がると、桂木から受けた仕事の準備に取り掛かるべく靴を脱いで部屋の中に入っていった。 |