クロアゲハの見る夢 このあたりのはずなのだが。 軽く周囲を見渡して、手元の紙切れを見た。 簡単に書かれた目的地までの地図。これを受け取ったのは、いつも情報を買っている男で、何でも綺麗な女がこれを自分に渡してくれと頼まれたらしい。 情報屋としての関係を知っている人間は数少ないはずだ。あの喰えない狸爺から漏れたのだろうかと思い、その疑問はすぐに打ち消した。彼は金と調べ上げた情報、己の目で吟味した事実だけを信用している。 とはいえ、情報屋は『これを渡しておけば判るだろう、と言っていた』と証言している。つまり、紙切れを渡した人間は自分を知っているということだ。 何にせよ、向かってみないと判らない。 暫し迷っていた思考の迷路から抜け出し、ふと白石はあるものを見つけた。 前方にある、小さな雑居ビル。寄り添うように生えている看板の一番下にちかちかと瞬く、黒い蝶。 紙切れを見直すと、確かに目印として『黒い蝶の看板』と記されている。 つまりはここにいるのか、と一人納得して、雑居ビルの入り口に踏み込んだ。 その紙切れには、待っている階数と部屋の番号も書かれてあった。 雑居ビルといえば聞こえはいいが、デリヘル業者が使っていると思しき痕跡も多少ある。すれ違うのは、いずれも派手目の化粧をした女を引き連れた鼻の下の伸びきっている男だった。年齢も様々で、年若い女もいれば、自分よりもずっと年上の男もいる。 それらを横目に、目的の部屋を目指す。指定されたのは、三階の一番奥に配置された部屋だった。 呼び鈴を一度鳴らし、硬いドアをノックする。と、懐に忍ばせた携帯電話が鳴り出した。 着信者を確認したが、非通知設定にしてあるのか、番号が判らない。それでも、白石は電話に出る。 「――もしもし」 『ようこそ。蝶の館へ』 返って来たのは、艶のある女の声だった。 何故、女が自分を知っているのか。目的は何なのか。白石は、全く知らされていない。 『鍵は開いています。どうぞ』 それだけ言い残し、ふつりと切れた電話。 少しの間だけ切れた携帯を眺め、やがて懐に直すと、顔を上げてドアノブを回した。 玄関を開けると、すぐにリノリウムの床が敷き詰められてあった。土足のままで入り、備え付けられた狭苦しそうなユニットバスやキッチンを通り過ぎると、もう一つのドアを開ける。 八畳ほどのやや広い部屋には、あまり物が置かれていない。奥にダブルサイズのフロアベッドがひとつ、そばに小さな棚がひとつあるだけだ。 しかし、中央に置かれている一人掛けの豪奢なソファだけが、圧倒的な存在感を放っている。。 血のように鮮やかな紅の革を張ったそのソファに、女が優雅な仕草で座っていた。 「来て下さったのね」 中性的な印象を思わせる女だった。ベリーショートの黒髪に、派手さを押さえた化粧をしている。柔らかなカーブを描いた頬が、どこか幼さを感じさせるのに、口元に浮かぶ笑みは成熟した女のそれ。 白い肌に映える黒いレザーのスーツが、首元から太股までを隠している。しかし、中央だけ編み上げのデザインになっており、そこからは膨らみの狭間や小さく窪んだ臍まで見えた。ご丁寧なことに、二の腕をほぼ覆うくらいの手袋まで黒いレザーで仕立てている。 ヒールの高いブーツで飾ったしなやかな脚を組んで、彼女はまた妖艶に微笑んでみせた。 「貴方、昆虫採集はお好きだったかしら?」 「……何が言いたい」 低い声音で尋ねると、くすくすと鈴を転がすように笑う。 「わたしは、ただの蝶。黒いアゲハチョウよ」 謳うように言葉を続ける。その言霊に吸い込まれるように、白石は女に近づいた。 「わたしは、貴方の望むとおりに踊りましょう。舞えと言われれば舞う。ただそれだけの哀れな蝶」 「縫いとめると言えば?」 「それも、貴方が望めば、従いましょう」 そんな言葉を交わすうちに、女の前に立つ。 暫く彼女の顔を眺め――やがて、小さくため息をついた。 「で? 今回の目的は何だ。黒崎」 「……ちぇ。あんたって、いまいちノリが悪いよね」 低い声に怯むことなく、彼女――黒崎はそう呟いて肩を竦めていた。 先ほどまでの妖艶な女の表情はすっかり消えうせ、今やすっかり馴染んだシニカルな視線でこちらを見上げている。よっこらしょ、と声を上げてソファの上に胡座をかいた。 「別に。特に大した用事じゃないんだ。ちょっと実験台になって貰おうかと思ってね」 「実験台だと?」 幼くも強かな表情のままで言う黒崎に、白石は思わず眉を潜めた。 「そ、実験台。こういう格好したら、男が鼻の下伸ばして寄ってくるかな、ってさ」 「そんなコトに俺を呼び出したのか?」 「まあ聞いてよ。このビルの中で、デリヘル嬢や客の奴らをカモにしてカネを巻き上げてるシロサギがいるって話がきてた」 「それで?」 どうやら、彼女の本業での話らしい。基本的に他人の仕事の話には耳を貸さないのが白石なりの流儀だが、自分まで駆り出されるとなれば話は別だ。 「で、そいつの懐に潜り込んでみるにはどうしたらいいかと悩んでたんだ。客の振りをするにもすぐに相手にはバレるだろうし、かといって裏方も勝手がまるでわかんない。だから」 「デリヘル嬢の真似事、か」 「そういうこと。ま、何だか勝手が違うみたいだから、この方法はやめる」 「そうしておけ」 苦笑する黒崎に、ため息交じりで提言する。それにしても、シロサギの懐にもぐりこむ為とはいえそんな真似事までするとは思ってもみなかった。 「ちなみに、早瀬にもやってみたんだけどさ」 「は?」 名前を言われ、一瞬顔が思い出せなかった。 確か、あの桂木の傍についている番犬の男だったはず。 「あいつにもちょっと仕掛けてみようと思って呼び出したら、何でかわかんないけど『踏まれてみたい』とか言われてさ。流石にありゃ驚いたね」 「……そりゃ驚くだろうな」 どこからツッコミを入れればいいのか迷って、とりあえず小さくため息をついた。 あの寡黙な表情から、どうやったらそんな台詞が飛び出すのかも不思議である。 「ところで、その衣装はどこから出してきた?」 「ああ、これ? SMクラブのお姉さんから借りてきた。運良くおれと同じくらいの体型の人がいたみたいでさ、サイズもぴったり」 確かに、着ているボンテージの衣装は彼女の身体にぴったりと合っていて。いつものシニカルなクロサギの表情とのギャップに少し戸惑った。 「俺の情報屋にここの事を教えたのは?」 「だから、今回の仕事をちょっと手伝ってもらおうって思ってたんだけど」 「俺は高くつくぞ」 「知ってるよ」 下らない駆け引きの応酬に、白石の口元には無意識な笑みが浮かんでいた。それを見た黒崎も、意味ありげに口角を上げて言う。 「……だから、黒いアゲハチョウなんだよ。おれは」 「黒崎」 名を呼ぶと、彼女はまた表情を変えてみせる。先ほどの妖艶なそれとはまた違う。 どちらかといえば、自分しか知らない、柔らかい女性の顔。 「それに、もう終わった後だからねぇ」 …………。 「は?」 物凄く間抜けな顔を彼女に晒しているかもしれない。それでも、白石は問わずにいられなかった。 「だから、もう終わった後なんだよ。今回の仕事、あんたにも手伝ってもらおうかと思ってたんだけど、振る間もないほど呆気なく潰れたんだ。今ごろ警察も入ってるはずだし」 タイミング悪かったんだよねえ、と黒崎が苦笑した。 だとしたら、何故自分をここに呼び出したのだ。 その疑問だけが残って、もう一度黒崎に問い掛ける。 「んー……」 少し困ったように可愛らしく小首を傾げ、黒崎は悪戯っぽい目を向けた。 「勿体無かったんだ」 「勿体無いって」 「こういう格好、滅多に着る機会なんてないだろ? だからあんたにだけ、最後に特別に見せてやろうと思って」 ダメかな、と眉を下げる彼女に、白石は顔を近づけると、そっと耳元で囁く。 「……見せるだけか?」 「あんたとなら、いいよ」 柔らかい声音で、黒崎が答える。 「あんたとしか、感じられないから。あんただけだもん、おれを躍らせるのも、縫いとめることも出来るのは」 軽く近づけた唇で耳をやんわり噛むと、小さく身じろぐしなやかな身体。 「……じゃあ、そうだな」 彼女の顔を覗き込む。黒く澄んだ瞳に映る、己の情欲に燃える表情。 「俺の望む通りに、踊ってもらおうか」 低い声音で告げた言葉に、黒崎は艶やかに笑って白石の首に腕を巻きつけた。 蕩かす愛撫もそこそこに、ソファの上で繋がった。繋ぎ止められた彼女の肢体が、しなやかに踊る。 やりにくいからと体勢を入れ替え、自分の上に黒崎を座らせた。途端にその奥まで突き刺さるような感覚に、びくんと引き攣る。咄嗟に絡めていた腕が、白石の頭を抱えこむ。 耳元に届く、彼女が吐く荒い息。 「……黒崎」 「な、に?」 「自分で、動けるか」 「待って、落ち着くまで、待って……っ」 優しい口調で問うと、黒崎は尚も身体を震わせながらたどたどしく答えた。仕方なく、その黒い髪を何度も撫でて、震えが収まるのを待つ。 何度ソファに乗り上げようとしても、ずり落ちる脚。白石はそれを見て、己の腕で抱え上げると、肘掛けの部分に巻き付けさせた。反対側の脚も、同じようにしてやる。 仰け反って、短い悲鳴を上げた。角度が変わって、重心が腰だけに集中して、さらに奥まで抉られる感覚に堪えられないのか、黒崎は固く目を瞑っている。 「……凄いな、お前」 ゆっくりと彼女の身体を引き剥がし、しげしげと眺めて緩く笑った。 濡れた瞳、てらてらと唾液で光る唇。 レザーの生地を押し上げるように、先端をぷつりと固く尖らせた小さな膨らみ。 下肢のスナップを外され、ウエストまでたくし上げられた生地の下では、淡い茂みのその奥で、愛しそうに男を受け入れている。 「あんたに、だけ、だよ?」 今だ荒い息の中、白石の肩を掴んだ黒崎が、喘ぎながら笑った。 肩に回していた手をそっと背中へと辿らせ、首筋へと滑らせる。かちりと当たった硬いものを、構わずに摘んで一気に引き下ろした。 じっ、と鈍い音と共にジッパーが降りて、白石は自由になったもう片方の手で上半身のレザーを脱がせた。すぐに顕わになった上気した肌を、今度は手のひら全体で撫でて吸い付くような感触を楽しむ。 「も、ちょっと。焦らすな、って」 可愛らしく膨らんだ胸をやわやわと揉み解していると、恥ずかしそうな黒崎が甘い声で咎めてきた。お返しに、硬いままの色づいた突起を指先で軽く捏ね回す。 ん、と息を詰めて、その表情が次第に蕩けていく。 「も、我慢、できないよぉ。……あんたの、で……いっぱいに、なってて」 「もうちょっとくらい、楽しませてくれたっていいだろ?」 「そんなぁ……」 抗議を聞かず、繋がったままで更に胸に愛撫を続けてやると、切なそうに喘いで身体を捩らせた。 ふと下半身の方に目をやると、彼女の腰がゆらゆらと前後に揺れていた。耳元からは、甘く微かに自分の名前を呼ぶ、舌ったらずな声が聞こえる。 苦笑を浮かべて、愛撫していた手で黒い髪を撫でた。 「……判った」 「しらい、し?」 「欲しいんだろ? ……ほら」 膝に力を込めて、下から勢いよく突き上げると、目を開いた黒崎が身体をびくつかせた。 「ぅ、あ……!」 しとどに濡らしたそこから、卑猥な音が聞こえてくる。ねっとりとした液体が、己や彼女の肉とぶつかり合う音だ。 逃げを打つ身体を逃さないように、素早く黒崎の細い腰に手を回した。しっかりと抱え、彼女の身体に揺さぶりを掛けていく。 「あっ、あ、熱い……っ! や、ぁ……溶けちゃう……!」 ぎゅう、と白石にしがみ付いて、与えられる快感に溺れる。 乱れて喘ぐ彼女の嬌声に、薄く笑んだ。 掠れた声でキスを強請られ、下唇を食んでくる唇をやんわりと塞ぎ、続いて舌で突付いて促す。ちろりと伸びた紅いそれを逃さず捕らえ、呼吸すら奪うほど貪った。 激しいキスの応酬に、飲み込みきれない唾液が顎を伝う。その感触にさえぞくぞくして、唇を離すと薄暗い部屋の中で煌く銀糸がいっそ淫靡に見えた。 しがみ付いていた彼女の手は、いつしか白石の首に巻きついていた。 汗で貼り付いた前髪をかきあげ、涙で潤んだ眦や鼻の頭に何度も唇を落とす。黒崎も同じように、顔中にキスの雨を降らせてきた。 キスの合間に、たどたどしい甘い声が白石の名を呼び、何度ももっと、と強請られて、彼女に送り込む律動を徐々に強くしていく。その度にぎゅうぎゅうと引き絞られて、食いちぎられそうだと歯を食いしばった。 呼吸を合わせ、隙間が惜しいとばかりにぴったりと身体を合わせて。 ソファが悲鳴を上げる中、白石は望むとおりに踊る蝶を縫い止める。 やがて終わりが来る、その時まで。 「……はぁ」 ほぼ同時に訪れた絶頂の余韻が深いのか、黒崎は蕩けるような笑みのまま白石に凭れかかった。 白石は白石でソファの背凭れに身体を預け、少し乱れて落ちた前髪をかきあげる。 「――も、最高。あんた」 「俺もだよ……」 ぽつりと呟く声に反応して答えを返せば、力の抜けた身体を摺り寄せてきた。 そういえばここ二週間くらい会わなかったんだなぁ、などと感慨深く思っていると、黒崎もどうやら同じ事を思っていたらしい。 「久しぶりだからかな……ふふ。物凄く燃えちゃった気分」 「身体、大丈夫か?」 「ん。大丈夫……。でも、いつもよりちょっと激しかった」 「お前がそんな格好で誘ってくるからだろ」 「あれ、おれのせい?」 くすくすと笑いながら自分の上でじゃれ付く黒崎に、思わず苦笑した。 先ほどまでの快楽に蕩けて瞳を潤ませたままの彼女の額には、小さな汗の珠が浮かんでいる。そこに唇を寄せて軽くキスをすると、くすぐったそうにくすくすと笑う声が聞こえた。 「――で、この部屋はどうするつもりなんだ?」 「ん……一ヶ月単位で借りたから、まだ暫くは好きに使うつもりでいる。ここの調度品もどうせ親爺経由で買い取った奴だし、終わったらまた捌くしね」 「ふーん……」 繋がったままの状態でぼんやりと問えば、やはり気だるげな答えが返ってくる。まあ、時々ここを利用するのも悪くはないだろうが。 などと思っているうちに。 「……あ」 「――お?」 ふと感じた違和感に、二人顔を見合わせた。未だに繋がったままの下肢が、何時の間にか勝手に熱くなりだしているのだ。 「……絶倫中年」 「……弁解の余地もございません」 じとお、と僅かに上気した顔の黒崎に言われ、白石は情けない声で言う。 前々から、自分と彼女の身体の相性がいいと感じてはいたが、ここまでとは思ってもみなかった。非常に現金で正直な下半身に、些か呆れもする。 とはいえ、ここまで黒崎に女としての快楽を教え込んできた白石としては、こんな反応をさせるまでになった彼女の身体にも責任はあると思う。無論、勝手に押し付けているだけだが。 「黒崎」 「……何?」 微かに身体を震わせながら声を返す彼女に、白石は意地悪く笑う。 「どうせだから、今度はベッドの上で踊ってもらおうか」 「……勿論、踊ってやるさ。あんたの前でしか、踊る気はないんだから」 妖艶な女の顔で微笑むと、黒崎はちろりと赤い舌を覗かせて、口髭を蓄えた顎をゆっくりと舐めた。 真っ白いベッドの上で、黒いアゲハチョウが踊る。 自分という楔に縫い止められて、その細い身体をしなやかにくねらせて。 その夜、白石が見た夢は、美しいクロアゲハの羽を毟り取る自分の夢だった。 |